新島襄
新島 襄(にいじま じょう、天保14年1月14日(1843年2月12日) - 明治23年(1890年1月23日))は、キリスト教の教育者である。江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
生涯[編集]
江戸一橋の安中藩江戸屋敷で生まれる。幼名は七五三太(しめた)。
16歳の時に江戸幕府直属の海軍伝習所に入り、ここで蘭学・数学・航海術、そして漢訳された聖書などを学んだ。元治元年(1864年)に安中藩を脱藩し、函館からアメリカ船に身を投じた。当時は既に開国されていたとはいえ、幕府に認可されていない外国へ行くことは国禁とされており、文字通り命がけの渡米であった。ここでアーモスト大学、アンドウヴァー神学校で学び、明治5年(1872年)に田中不二麿文部理事官を助けてアメリカやヨーロッパの教育制度を視察している。
明治7年(1874年)11月、日本にキリスト教主義の学校を設立することを目的として帰国し、一時、父母のいる安中に戻ってキリスト教の布教活動を行う。明治8年(1875年)には山本覚馬とジェローム・デイヴィス宣教師の協力を得て、京都府に同志社英学校を創立する。明治9年(1876年)に山本の妹である八重子と結婚し、明治10年(1877年)には同志社女学校を開校する。以後、新島は同志社を総合大学とするために尽力し、明治21年(1888年)には「同志社大学設立の旨意」を発表した。これによりキリスト教的な自由自治主義の教育原理を強調したが、その2年後の明治23年(1890年)1月23日に神奈川県の大磯において急死した。36歳没。
弟子には徳富蘇峰、安部磯雄をはじめ、浮田和民や海老名禅正など、新島の死後に活躍した著名人の面々が数多くいる。
新島ゆかりの地[編集]
安中市街の西方、杉並木の始まる手前、JR安中駅からバスで10分ほどの群馬バス安中車庫の脇を南へ300メートルほど入ったところに、新島襄の遺跡碑が存在する。新島の父母が廃藩置県後に江戸から移り住んだ屋敷跡で、その旧宅を復元した寄棟造、茅葺きの農家風の家屋が建てられている。内部の見学も可能であるという。新島自身は明治7年の帰国時に父母のいるこの屋敷に身を寄せて、布教活動を行なっている。
家族[編集]
- 祖父:新島弁治
- 祖母:すま
- 父:新島民治(安中藩祐筆職) - 襄の伝道によりキリスト教に改宗
- 母:新島とみ
- 姉(長女):くわ
- 姉(次女):まき
- 姉(三女):みよ
- 姉(四女):とき
- 弟:双六
- 妻:八重
- 義兄:山本覚馬
- 養子:新島公義
登場作品[編集]
- 映画
- 『石井のおとうさんありがとう』(2004年、演:真砂皓太)
- テレビドラマ
- テレビアニメ
外部リンク[編集]
- 新島襄 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
- はこだて人物誌 新島襄
- 新島襄 - 同志社のあゆみ|学校法人同志社
- 新島遺品庫||同志社大学 同志社社史資料センター
- 新島襄先生誕生之地 - 千代田区観光協会
- 新島襄寄港記念碑 - 風間浦村役場
- 北海道大学関西エルム会新聞 VOl.49(2003年11月24日時点のアーカイブ)