新島八重

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新島八重(にいじまやえ、1845年12月1日 - 1932年6月14日)は、新島襄の妻として同志社女子大学の開設に尽力した。「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われる。

来歴[編集]

会津藩士の父・山本権八、母・佐久の間に1845年生まれる。13歳の時に四斗俵を何回も持ち上げるほどの、力自慢の女性とされる。1865年、川崎尚之助と結婚するが。のちに戊辰戦争の中で離縁する。新政府軍の会津攻めの際には男装して鶴ヶ城に籠もり、八重は鉄砲を持って戦闘に参加し、「戊辰戦争」を最後まで戦い抜いた。 戦後に新島八重は京都府顧問の兄・山本覚馬がいる京都に向かった。八重は京都女紅場新英学校(後の府立第一女子高、現在の鴨沂高校)の舎監兼教導試補となる。宣教師の新島襄と出会い、1875年(明治8年)に2人は結婚する(八重は30歳)。近代日本人で最初のキリスト教式結婚式を挙げたとされる。

結婚後、新島襄は「同志社英学校」(現在の同志社大学の前身)を開校する。当時としては珍しいが、男女平等を主張する八重は夫を「ジョー」と呼び、世間の不評をこうむったと言われる。会津の頑固女とも評された。1876年女子塾を開き、同志社女子大学の基礎を作った。1890年(明治23年)に、新島襄は46歳で急死する。八重は44歳で襄と死別した、その後、八重は日本赤十字社正社員となり、奉仕作業に従事する。日露戦争時は大阪で2ヶ月間、篤志看護婦として従軍する。1932年(昭和7年)に八重は急性胆のう炎を患い、86歳で死去する。

2012年度から2013年度にかけて放送された、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公であった。