岸田忠氏
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岸田 忠氏 きしだ ただうじ | |||||||||||||||||||
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岸田 忠氏(きしだ ただうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。大和岸田の1万石の大名である[1]。
略歴[編集]
岸田家は大和岸田(現在の奈良県天理市)を名字にする領主で、当初は筒井氏に従っていた[1]。
豊臣秀長に従った時期は不明だが、天正13年(1585年)3月の豊臣秀吉による紀州征伐の際、秀吉の弟・秀長の指揮官として藤堂高虎、羽田正親、そして岸田伯耆守とあるので、恐らくこの時期には秀長に従っているものと推定される。なお、Wikipediaでは紀州征伐の後に筒井定次が伊賀に移封された後に秀長に従ったと書かれている。ただ、記録によると伯耆守の子とされる遠近はその後も定次に従い、後に藤堂高虎に従ったとあり、伯耆守が忠氏かどうかは確定できていない。
天正19年(1591年)の秀長の死後は養子・秀保に従い、文禄4年(1595年)に秀保が嗣子無く没して大和大納言家が絶家すると、秀吉から独立した大名として岸田に1万石を与えられた。秀吉生前の形見分けの際に、名刀「則重」を与えられている[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、『関原軍記大成』では西軍に属し、9月15日の本戦では宇喜多秀家の左方に布陣した、とある。
戦後は改易されて陸奥盛岡藩主・南部利直に預けられ、石鳥谷(現在の岩手県花巻市)に居住。同地で元和元年(1615年)12月2日に死去した。享年は70歳だったといわれる。忠氏には子があったようで、孫の右近は南部氏の家臣となったが、寛文3年(1663年)に死去。嗣子が無く、岸田家は断絶している[1][2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]