大胡町 (前橋市)
大胡町(おおごまち)とは、群馬県勢多郡に存在した町である。現在は前橋市に編入されて消滅している。
概要[編集]
前橋市の東側に存在していた町である。
この町の歴史はかなり古い。記録によると天武天皇の9年、すなわち飛鳥時代末期の681年に山ノ上碑が建立されている。なお、この記録によると当時、大児臣(おおごのおみ)が住んでいたとされており、大児から大胡になったものかと推測されている。
中世には豪族の大胡氏により支配され、大胡氏の支配の下で城下町が形成されて繁栄し、これが現在の中心市街の都市的な起源と見られている。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡した際、大胡氏も改易となり、新たな関東の太守に徳川家康が入ると、家康は大胡城に譜代の家臣・牧野康成を2万石で入れて守らせた。
元和2年(1616年)に康成の嫡子・牧野忠成は越後国長峰藩に移封され、大胡は前橋藩の支配下に編入された。しかしこの町は日光裏街道沿いの市場・宿場町として江戸時代を通じて発展し、毎月3と8の日に開かれる六斎市にはマユ・生糸・雑貨その他の取引が盛んに行なわれ、近郷から人々が集まって大いに賑わったとされる。また大胡は伊勢街道や前橋道の分岐点でもあり、赤城山南麓における交通・経済の中心地でもあったことが繁栄をもたらすことになった。
明治時代に入ると、明治22年(1889年)4月に大胡町・茂木村・河原浜村・堀越村・滝窪村・横沢村・樋越村・上大屋村の1町7村が合併して大胡村となり、明治32年(1899年)に町制を施行して大胡町となる。平成16年(2004年)12月5日、勢多郡宮城村・粕川村とともに前橋市へ編入されて消滅した。
この町は前述したが、日光から上州・信州への近道として利用された日光裏街道の「道しるべ」をはじめ、千貫沼の北400メートルの畑地の中にある稲荷塚古墳、堀越古墳、大胡城跡、大胡神社、長善寺などの旧跡、古社寺がある。町の北部にはぐりーんふらわー牧場があり、桜・躑躅・楓などが植えられ、バンガローやキャンプ場なども整備されており、牧場には乳牛や羊、ポニーなどが放牧されている。
人口の変遷[編集]
平成8年(1996年)3月31日の住民基本台帳によると大胡町の人口は1万5565人、平成16年(2004年)12月1日の推計人口は1万7083人である。
旧大胡町の見どころ[編集]
地域[編集]
大字[編集]
2004年に前橋市に合併された際に、大字が町名となった。
- 大胡(現大胡町)
- 茂木(現茂木町)
- 堀越(現堀越町)
- 横沢(現横沢町)
- 滝窪(現滝窪町)
- 金丸(現東金丸町)(前橋市との合併の際、既に前橋市に存在していた金丸町と名称が重複してしまう為、「東金丸町」となった)
- 河原浜(現河原浜町)
- 樋越(現樋越町)
- 上大屋(現上大屋町)
教育[編集]
- 大胡町立大胡幼稚園(現 前橋市立大胡幼稚園)
- 大胡町立大胡小学校(現 前橋市立大胡小学校)
- 大胡町立滝窪小学校(現 前橋市立滝窪小学校)
- 大胡町立大胡中学校(現 前橋市立大胡中学校)
- 大胡町立大胡東小学校(現 前橋市立大胡東小学校)
- 群馬県立前橋東商業高等学校(2009年3月に廃校)
施設[編集]
交通[編集]
鉄道[編集]
道路[編集]
- 国道
- 県道
- 道の駅