垪和氏堯

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垪和 氏堯(はが うじたか、? - 弘治3年(1557年)?)は、戦国時代武将後北条氏家臣

略歴[編集]

垪和氏は元は室町幕府奉公衆であり、堀越公方北条早雲に滅ぼされた際に後北条家に従ったと見られるが、氏堯の史料上の初見は天文10年(1541年)であり、堀越公方が滅ぼされてからの40年間をどうしていたのかは不詳である。一説に諱の上に後北条家の通字である「氏」を用いていることから、後北条家と対等な立場にあり、今川義元と氏康が争った河東一乱の際に氏康に従ったと見られており、この場合は空白の40年間の説明がつくことになる。

仮名は又太郎。受領名は伊予守。北条氏康に仕えて天文15年(1546年)の河越夜戦、そして武蔵松山城攻略に参加して武功を挙げた。氏康から戦後に松山城代に任命されている。しかし同年9月、太田資正の反撃を受けて松山城を奪われ、天文16年(1547年)12月に氏康と共に再度、松山城を攻め落として城代に再任された。

弘治3年(1557年)7月3日に氏康から嫡男の氏続に対して家督相続を保証する旨の書状が出されているため、恐らくこの少し前に死去したのではないかと思われる。