和田業繁
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和田 業繁(わだ なりしげ、永禄3年(1560年) - 元和3年9月29日(1617年10月28日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。後に織田家の家臣を経て北条家の家臣。上野赤坂城主。
生涯[編集]
父は甲斐武田家の譜代家老である跡部勝資で長男[1]。初名は跡部 昌業(あとべ まさなり)[1]。兄弟姉妹に跡部昌出と朝比奈信良に嫁いだ娘。子に業勝、信吉、跡部業保、娘(和田正直室)、娘(跡部良保室)、娘(春日助右衛門室)。養子に満業。養父は和田業繁で正室は業繁の娘[1]。
上野先方衆である和田業繁の婿養子になる[1]。諱の「昌」「信」は甲斐武田家からの偏諱と推測され[1]、父親の権勢によるものと思われる。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで養父が戦死したため、和田家を相続した[1]。天正10年(1582年)の武田征伐で織田信長により武田家が滅亡すると織田家の家臣となる[1]。しかし本能寺の変で信長が横死し、それに乗じた北条氏直によって滝川一益が神流川の戦いで大敗して上野から追われたため、北条家の家臣となる[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐で北条家が滅亡すると業繁も没落し、各地を流浪した。最終的に近江武佐において58歳で死去[1]。