里見義豊
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里見 義豊(さとみ よしとよ、永正11年(1514年[1]) - 天文3年4月6日(1534年5月18日))は、戦国時代の安房の戦国大名。幼名は竹若丸[1]。父は里見義通[1]。里見家の第5代当主[1]。
生涯[編集]
永正15年(1518年)に父が死去した時はまだ5歳のため、父の弟である実堯が後見人として国政をとる[1]。義豊は宮本城で養育されて成長し元服するが、20歳になっても約定通りに実堯が国政の実権を譲らなかったため、天文2年(1533年)7月に稲村城に実堯を攻め殺して実権を奪い取った[1]。
天文3年(1534年)4月、実堯の遺児・義堯に稲村城を攻められて敗死した[1]。享年21。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9