中川氏
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中川氏(なかがわし)とは、織豊政権下の大名。江戸時代には豊後国岡藩(現在の大分県竹田市)を支配した外様大名である。江戸幕府における家格は城主。江戸城内の詰間は柳間。家紋は中川柏。
概要[編集]
清和源氏源頼光流と言われるが、中川家の経歴がハッキリするのは織田信長が畿内を制覇した頃に登場する中川清秀である。当初、清秀は摂津国守護の荒木村重に仕えたが、村重が信長に反逆すると当初は同調しながらもすぐに翻意して信長に帰順。その功により、摂津茨木城主に任命された。信長没後は豊臣秀吉に仕えるが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政に敗れて戦死。家督は嫡男の中川秀政が継承する。秀政の時代に播磨国三木城主となるが、秀政も朝鮮出兵で陣没。このため、その実弟である中川秀成が跡を継ぎ、豊後国岡城主となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属したので、戦後は幕藩体制下の岡藩主となった。石高は7万400石であった。藩政ではあまり見るところもないが、江戸時代前期に儒学者の熊沢蕃山を招聘するなど、学術振興に熱心な藩だった。
明治時代まで一貫して岡藩を支配し、明治時代には伯爵に叙せられている。
江戸時代の中川家の藩主[編集]
外様 7万石(1594年 - 1871年)
代 | 氏名 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 中川秀成 なかがわ ひでしげ |
― | 文禄3年 - 慶長17年 1594年 - 1612年 |
42 | 父は賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀。 |
2 | 中川久盛 なかがわ ひさもり |
従五位下 内膳正 |
慶長17年 - 慶安4年 1612年 - 1651年 |
59 | |
3 | 中川久清 なかがわ ひさきよ |
従五位下 山城守 |
慶安4年 - 寛文6年 1651年 - 1666年 |
67 | |
4 | 中川久恒 なかがわ ひさつね |
従五位下 佐渡守 |
寛文6年 - 元禄8年 1666年 - 1695年 |
55 | |
5 | 中川久通 なかがわ ひさみち |
従五位下 因幡守 |
元禄8年 - 宝永7年 1695年 - 1710年 |
48 | |
6 | 中川久忠 なかがわ ひさただ |
従五位下 内膳正 |
宝永7年 - 寛保2年 1710年 - 1742年 |
46 | |
7 | 中川久慶 なかがわ ひさよし |
従五位下 山城守 |
寛保2年 - 寛保3年 1742年 - 1743年 |
36 | 実父は安芸広島藩4代藩主の浅野綱長。 元文2年(1737年)に前藩主・久忠の養子となる。 |
8 | 中川久貞 なかがわ ひささだ |
従五位下 修理大夫 |
寛保3年 - 寛政2年 1743年 - 1790年 |
67 | 実父は三河吉田藩初代藩主の松平信祝。 |
9 | 中川久持 なかがわ ひさもち |
従五位下 修理大夫 |
寛政2年 - 寛政10年 1790年 - 1798年 |
23 | 祖父は前藩主の久貞。 父の久徳は不行跡のため廃嫡。 |
10 | 中川久貴 なかがわ ひさたか |
従五位下 修理大夫 |
寛政10年 - 文化12年 1798年 - 1815年 |
38 | 実父は大和郡山藩3代藩主の柳沢保光。 |
11 | 中川久教 なかがわ ひさのり |
従五位下 修理大夫 |
文化12年 - 天保11年 1815年 - 1840年 |
41 | 実父は近江彦根藩13代藩主の井伊直中。 |
12 | 中川久昭 なかがわ ひさあき |
従五位下 修理大夫 |
天保11年 - 明治2年 1840年 - 1869年 |
70 | 実父は伊勢津藩10代藩主の藤堂高兌。 |
13 | 中川久成 なかがわ ひさなり |
従五位下 内膳正 |
明治2年 - 明治4年 1869年 - 1871年 |
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