ヤエノムテキ

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この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。詳しくはwp:ja:馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。
ヤエノムテキ
欧字表記Yaeno Muteki[1]
品種サラブレッド[1][2]
性別[1][2]
毛色栗毛[1][2]
生誕1985年4月11日[1][2]
死没2014年3月28日(満28歳没)[3]
ヤマニンスキー[1][2]
ツルミスター[1][2]
母の父イエローゴッド[1][2]
生国日本国旗.png日本北海道浦河町[1]
生産宮村牧場[4]
生産宮村牧場[1][2]
馬主(有)富士[1][2]
調教師荻野光男(栗東[1][2]
厩務員荻野功[5]
競走成績
タイトルJRA賞最優秀父内国産馬(1990年)[1]
生涯成績23戦8勝[1][2]
獲得賞金5億2422万7500円[2]
 
勝ち鞍
GI 皐月賞 1988年
GI 天皇賞(秋) 1990年
GII 京都新聞杯 1988年
GII 鳴尾記念 1988年
GII 産経大阪杯 1989年

ヤエノムテキ(欧字名:Yaeno Muteki1985年4月11日 - 2014年3月28日)は、日本競走馬種牡馬[1]

デビュー前[編集]

日本に多い零細な牧場経営者にとって、子供を生まない繁殖牝馬ほど厄介な存在はない。何の利益も生まずに養育費だけがかかり、馬房を占領している。その馬房に妊娠している牝馬を入れることができれば得られるはずの収入が得られない。二重の意味で経営上の負担である。それでも、その繁殖牝馬自身がかつて競馬で好成績を挙げたとか、優秀な子供を産んだとか、兄弟近親に活躍馬がいるとか、血統面でのセールスポイントがあれば1年ぐらい子供ができなくても、次に産む子供が高値で売れればよい。

牧場長の宮村岩雄は繁殖牝馬の整理を迫られていた。1983年(昭和58年)、ツルミスターは3歳のうちに3戦して未勝利のまま現役を退き、生まれ故郷の宮村牧場に戻されていた。ツルミスターには近親の活躍馬がいない。ツルミスターから数えて3代前のフジサカエの弟のフジミツルが30年ほど前に日経新春杯を勝ったぐらいであるが、宮村牧場が生産したわけではない。兄オゴトショウリは南関東の条件馬、母のフジコウも中央で条件戦の初冨士賞など4勝した程度、ツルミスターは最高に良く言っても二流の繁殖牝馬である。フジサカエは宮村が浦河の伏木田牧場から独立する際に分けてもらった繁殖牝馬で、その子孫は代々宮村牧場を支えてきた功のある系統であるが、家族3人、繁殖牝馬6頭の宮村牧場には、価値のない繁殖牝馬を遊ばせておく場所はない。

ツルミスターは宮村牧場の処分馬リストに上がったが、すんでのところで売られずに済んだ。というのも、ツルミスターの血統表を眺めると、父イエローゴッドカツトップエース、祖父ソロナウェーキーストンテイトオー、曽祖父トサミドリコマツヒカリという日本ダービー優勝馬の父であり、四代前の父トキノチカラ菊花賞桜花賞優勝のブラウニーの父であり、ずっと日本で大成功している種牡馬が交配されてきているのだ。宮本牧場では、これだけ良い種牡馬を交配され続けた系統なのだから、もう少しだけ様子を見ようということになり、ツルミスターは牧場に置いてもらえることになった。

ツルミスターの最初の交配相手に選ばれたのはヤマニンスキー。現役時代は条件馬であり産駒もデビューしておらず、種牡馬としての強調材料は1歳上の名馬にして名種牡馬マルゼンスキーと父(ニジンスキー)/母父(バックパサー)が同じということ位であった。ツルミスターに対する血統的期待とマルゼンスキーを付ける程のことは出来ないと考えた結果の選択であった。

普通よりやや遅い1985年(昭和60年)4月に産まれたヤエノムテキは、大きな体に四白流星の美しさと激しい気性を兼ね備えていた。性格が災いして1頭だけ他の馬から引き離されて放牧された。成長すると、母ツルミスターと同じ荻野光男調教師の下でデビューを待つことになった。

東京競馬場の皐月賞[編集]

クラシックを狙うにしては遅い4歳の2月にダート戦でデビューを果たしたヤエノムテキは、弥生賞も終わった3月の半ば、裏開催の中京競馬場でダートの沈丁花賞を大差で勝ちあがった。クラシック戦線は、東のサクラチヨノオー、西のサッカーボーイの二強対決の様相を呈している。一方のヤエノムテキはまだ2勝、皐月賞に滑り込むため、連闘で「東上最終便」毎日杯に挑んだ。

毎日杯は公営笠松からやってきたオグリキャップの独壇場だった。離された4着に沈んだヤエノムテキが自力で皐月賞に出走するチャンスは潰えた。当時皐月賞のフルゲートは18頭、15頭は既に埋まっている。条件馬のヤエノムテキが出走できる確率は6分の3。皐月賞候補一番手のサッカーボーイは直前に出走を取りやめた。

1988年(昭和63年)の皐月賞は、中山競馬場が改装工事のため12年ぶりに東京競馬場で開催された。過去に東京競馬場で皐月賞が開催されたときの優勝馬は、トウショウボーイキタノカチドキシンザンメイズイ。いずれも年度代表馬に選ばれた、日本の競馬史に名を刻む名馬である。ヤエノムテキは最内の1枠1番を引き当てた。難コースで知られる府中の2000メートルの1番枠である。単勝25倍の9番人気。本命は前哨戦スプリングステークスを制したモガミナイン、ここまで4戦3勝。3歳チャンピオンで弥生賞優勝のサクラチヨノオーが2番人気。ヤエノムテキは一番内側で18頭で一番素晴らしいスタートを決めた。隣に2番のサクラチヨノオーが半馬身遅れて並びかけ、ヤエノムテキはサクラチヨノオーに先頭を譲る。

当時の東京競馬場芝2000メートルコースは、スタート直後に左へ90度の急カーブがあった。スタート直後、各馬は有利なポジションを争ってスピードに乗って前へ出ようとする。内側の馬は包まれて行き場がなくなることを恐れて外へ出ようとするし、外側の馬はコーナーで大きく外を回って距離をロスしないよう、内へ切れ込もうとする。そこに急カーブがやってくるのである。1991年(平成3年)に圧倒的1番人気に支持された武豊騎乗のメジロマックイーンが後続に大差をつけて1位に入線し、進路妨害で最下位となったことで悪名高い、難コースである。

デビュー2年目の武豊はきさらぎ賞を勝ったマイネルフリッセに騎乗していた。外側の12番枠からスタートした武豊は、第2コーナーで内へ切れ込んだ。10番、横山典弘騎乗のメイブレーブも連れて内へ入る。そこにモガミナインがいた。進路をふさがれたモガミナインは立ち上がり、後続の馬にも乗り上げられて大きく後退した。モガミナインの皐月賞はそこで終わり、マイネルフリッセとメイブレーブ、若手の武豊と横山典弘は失格となった。当時、降着制度はまだない。マイネルフリッセの馬主の岡田繁幸は、モガミナインの生産者でもある。

3番手集団を進むヤエノムテキにはアクシデントの影響は全くなく、先頭2頭が競り合って早めの59秒台で1000メートルを通過するなか、一番内側の経済コースを進む。人気のサクラチヨノオーは半馬身ほど前を行き、その外側に並んで京成杯優勝のトウショウマリオ(3番人気)。やがて府中名物の大ケヤキを通過すると、先頭を行く二騎との差が一気に縮まり、後続馬も外側から押し上げてくる。最後のコーナーでは一位番外側から4番人気のモガミファニーと本命のモガミナイン、不利を受けた2頭が必死に先頭に並びかけてきた。ヤエノムテキはまだ一番内側をぴったりと回っている。

コーナーを曲がりきって最後の直線を向くと、ヤエノムテキの前には4頭ほどの馬が並んでいた。東京競馬場はここから上り坂だ。坂を半分ほど上ったところで、内から3頭目のサクラチヨノオーが先頭に立った。サクラチヨノオー騎乗の小島太は、外から追い上げるトウショウマリオを気にして右を見た。その瞬間を逃さずヤエノムテキはサクラチヨノオーを内から抜き去って一気に先頭に躍り出た。慌てた小島太はムチを入れて体勢を立て直そうとしたが、サクラチヨノオーは外によれてしまい、一番外側から突っ込んできたディクターランドにも交わされてしまった。

ヤエノムテキの馬主の大池正夫は馬主暦37年のベテランだったが、はじめての重賞制覇が皐月賞となった。牧場の宮村にとっても初めての大レース優勝、勝つとは思わず上京しなかった。調教師の荻野光男もクラシック初優勝。関西馬の皐月賞優勝はハードバージ以来の11年ぶり。既に大レース勝ち経験のある西浦勝一騎手にとってもカツラギエースでのジャパンカップ以来、久々の大レース優勝だった。父のヤマニンスキーにとっても子供が重賞を勝つのは初めて。ヤエノムテキが9番人気で2着のディクターランドが14番人気。当時はまだ枠番連勝式の馬券しかなかったが、配当は69.4倍の波乱だった。

日本ダービーとその後[編集]

サッカーボーイはNHK杯で復帰し、日本ダービーで本命になった。人気は割れてサッカーボーイが5.8倍、ヤエノムテキが6.4倍、サクラチヨノオーとコクサイトリプルが9.4倍。ヤエノムテキは24頭中11番枠、ど真ん中からのスタートで、皐月賞のように素晴らしいスタートを切った。大外24番のアドバンスモアがスタート直後のスタンド前で一気に飛ばして先頭に立つ。

レースは、200メートルにわたる叩き合いの末、わずかにサクラチヨノオーがメジロアルダンを抑えてレコードタイムで優勝した。ヤエノムテキは離れた4着に終わり、サッカーボーイは15着に大敗した。

ヤエノムテキはその後夏も走り続け、秋には京都新聞杯GII)と鳴尾記念(GII)を勝ったが、本命に押された菊花賞GI)は10着に大敗した。この年の最優秀4歳牡馬には皐月賞優勝のヤエノムテキも、日本ダービー優勝のサクラチヨノオーも、菊花賞優勝のスーパークリークも、マイルチャンピオンシップを制覇したサッカーボーイも選ばれず、タマモクロスとの激闘を演じ、有馬記念を勝ったオグリキャップが選ばれた。

翌年は大阪杯(GII)を勝って宝塚記念(GI)に本命で迎えられたが、7着に大敗した。オグリキャップ、イナリワン、スーパークリーク、サッカーボーイ、サクラチヨノオー、メジロアルダンら、ヤエノムテキが争った活躍馬はいずれも怪我や不調で休養に入ったが、ヤエノムテキはシーズンを通して出走を続けた。それでも結局その後1年半に渡り、勝ち星に恵まれなかった。

東京の二千に咲いたムテキの舞い[編集]

1990年(平成2年)、オグリキャップとバブル景気がもたらした競馬ブームはピークを迎え、日本ダービーでは東京競馬場に19万人を超す観衆が集まった。デビュー以来騎乗してきた西浦に変わり、岡部幸雄とのコンビで挑んだ緒戦の安田記念はオグリキャップが日本レコードタイムで優勝し、ヤエノムテキは2着。続く宝塚記念はオグリキャップに次ぐ3着。勝っても負けても主役はオグリキャップだった。

1990年(平成2年)10月28日、第102回秋の天皇賞。東京競馬場の2000メートル、皐月賞の舞台に、ヤエノムテキは皐月賞のときと同じ496キロで出走してきた。オグリキャップが単勝2倍の本命で単枠指定。宝塚記念の優勝馬オサイチジョージが5倍の2番人気で、ヤエノムテキは8倍で3番人気、さらにバンブーメモリーやメジロアルダンが名を連ねる。

ヤエノムテキは4枠7番、いつものように素晴らしいスタートを切ると、1枠から先頭へ出ようとする逃げ馬を先に行かせて3番手につけた。2コーナーで、外枠から出た馬4、5頭がひとかたまりになって一気に上がっていった。その中にオグリキャップやオサイチジョージもいる。ヤエノムテキは皐月賞のときと同じように、7番手で一番内側に張り付いて経済コースを行く。すぐ右隣には同じ4枠のメジロアルダンが半馬身遅れて追走している。

先頭を行くロングニュートリノはここ2戦で後続につけた差が11馬身という連勝中の快速馬で、それを前哨戦の毎日王冠を勝った元3歳チャンピオンのラッキーゲランが突っついて、1000メートルの通過タイムが58秒2、速いペースになった。そして第3コーナー、最初に動いたのはオサイチジョージ。ヤエノムテキの右を1馬身ほど先へ行っていたオサイチジョージは、有利なコースを狙って内へ入ろうとする。岡部はヤエノムテキを少しだけ前に行かせてこれを防ぎ、最後の第4コーナーを回る。オグリキャップは一番外を回り、ヤエノムテキは18頭で一番内側を回った。

古馬の最高峰の競争だけあって、そう簡単にバテる馬はいない。最後のカーブを曲がって直線に向くと、後続各馬はいっせいに外側から先頭を行くラッキーゲランを追い上げにかかる。オグリキャップはコースのちょうど真ん中あたり、内側から6頭目の位置で直線を向いた。ヤエノムテキの前を走っていたマキバサイクロンが直線に入るときに少し外にふくれると、一瞬、内側ぴったりを行くヤエノムテキの前が開けた。残り400メートルで場内のカメラは本命の緑の帽子のオグリキャップを映し出した。しかしその時には、もうヤエノムテキが一番内から3馬身ほど先頭に飛び出していた。皐月賞のときとおんなじだ。

最後の坂を上りきるとオグリキャップは伸び悩み、かわって後方からバンブーメモリーとメジロアルダンが一気に進出してきた。メジロアルダンは一完歩ごとにヤエノムテキとの差を詰めてゆくが、並びかけたところがゴールだった。アタマ差でヤエノムテキは二つ目のタイトルを手にし、第102代天皇賞馬の栄誉に浴した。優勝タイムの1分58秒2は、サクラユタカオーの持つ従来の記録を塗り替えた。ヤエノムテキの記録は9年間更新されなかった。かつてシンボリルドルフで優勝を逃した岡部幸雄にとって、天皇賞(秋)は初めての勝利だった。

「ラストラン」[編集]

1990年暮れの有馬記念は、時代の寵児となったオグリキャップの引退競走、ラストランということで注目を浴びた。鞍上も、競馬の世界を超えて人気を得た武豊。中山競馬場の入場者数は17万人を超え、過去最高記録になった。新たに台頭してきた新世代のホワイトストーンメジロライアンを迎え、JRAの売り上げは3兆円を超えた。そしてヤエノムテキも、この日ラストランを迎える。

この競走を最後に現役を退くオグリキャップには、翌年、3箇所で引退式が行われることに決まっていた。一方ヤエノムテキには引退式の予定はない。JRAの規定では、現役時代に功績をあげた競走馬は公式に引退式が行われる。しかし気性の荒いヤエノムテキには、大人しく引退セレモニーをこなすことはできないだろう、として引退式はキャンセルされた。

下見所(パドック)での周回を終えると、出走馬は隊列を組んで競走が行われる本馬場へと向かう。下見所から本馬場へは、観客席の地下に作られた専用通路を抜け、17万の大観衆の前へと姿を現す。今日も496キロのヤエノムテキは1枠2番で、オースミシャダイに続いて2番目にファンの前に現れた。オサイチジョージ、メジロアルダンらも順調に本馬場入りを果たし、8番目に白い馬体、青い帽子のオグリキャップが登場すると、観客席からひときわ高い歓声が上がった。

「ヤエノムテキが放馬をしてしまいました―。」大歓声に驚いたヤエノムテキは立ち上がり、岡部幸雄を振り落とすと、中山競馬場を、二度の戴冠を果たした東京競馬場と同じ左回りに一目散に走り出した。

『東京の二千に咲いたムテキの舞い』。翌年作られたヤエノムテキのポスターにはそう記されている。

ヤエノムテキ会[編集]

1991年(平成3年)に種牡馬デビューしたのはヤエノムテキだけではない。オグリキャップも大変な注目を浴びながら18億円で種牡馬になったし、16億円で輸入されたアメリカサンデーサイレンスは史上初めて年度代表馬として日本で種牡馬生活を始めた。秋と春の天皇賞を連覇したスーパークリークも15億円、日本ダービーを逃げ切り勝ちしたアイネスフウジンが9億円、凱旋門賞優勝のキャロルハウスに、ドイツイタリアのチャンピオンイブンベイオセアニアチャンピオンのボーザム、要するにバブル景気は世界中の活躍馬を日本に呼び寄せた。ジェイドロバリー、イナリワンもいる。

ヤエノムテキはそれでも50頭ほどの牝馬に交配された。3年目の子供のムテキボーイはホッカイドウ競馬で活躍して中央の交流競走にも挑戦し、後に南関東へ移籍して東京湾カップやテレビ埼玉杯に勝った。子供が1頭生れただけでテレビのニュースになったオグリキャップよりも早く、重賞優勝馬の父になった。1996年には57頭の子供が46勝して収得賞金が2億7000万に達し、アーニングインデックスは1を超えた。

それでもサンデーサイレンスの大成功に比べると、ヤエノムテキの馬産地への貢献はほんとうに僅かにすぎない。サラブレッド種牡馬の淘汰は競馬の競走よりも過酷で、やがてヤエノムテキのシンジケートは解散した。

2006年現在、サンデーサイレンスもジェイドロバリーもアイネスフウジンもこの世を去り、イナリワンやスーパークリークも種牡馬を引退した。しかしヤエノムテキは、現役の種牡馬である。シンジケート解散後、現役時代のファン150人がヤエノムテキ会を結成し、北海道の浦河で種牡馬として供用されている。2006年3月時点で、通算コンパラブルインデックス0.94に対してアーニングインデックスは0.76。これまでに競走に送り出した177頭のうち116頭が勝ち馬になっており、457勝をあげている。

2005年、ヤエノムテキの子は一年間で350万円ほどの賞金を稼ぎ、種牡馬順位で535位だった。年間アーニングインデックスは0.16。オグリキャップは536位、メジロアルダンは538位である。

これまで送り出した子供のうち主なものは、ムテキボーイを除くと、オープンのコスモス賞で3着になったフジノムテキ、芙蓉ステークスで2着のマイネルナチュラル、笠松競馬場の重賞である岐阜金賞で3着のミツアキムテキ、荒尾競馬場の3歳優駿競走で2着になったコトブキグローリ、JRAで条件特別戦を勝ったユウキツバサオー、ヤエノビューティー、クリヤームテキ、ムテキヒーロー、メイショウカケハシである。

競走成績[編集]

以下の内容は、netkeiba.com[6]およびJBISサーチ[7]、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)[8]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム

(上り3F)

着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬) 馬体重

[kg]

1988.02.27 阪神 4歳新馬 ダ1700m(稍) 8 4 4 02.8 (2人) 01着 1:49.6(51.8) -1.1 0西浦勝一 55 (メジロマーシャス) 500
0000.03.19 中京 沈丁花賞 4下 ダ1700m(稍) 8 3 3 01.3 (1人) 01着 1:48.1(39.4) -2.0 0西浦勝一 55 (アグネスターフ) 506
0000.03.27 阪神 毎日杯 GIII 芝2000m(重) 10 7 7 06.1 (4人) 04着 2:05.5(51.5) -0.7 0西浦勝一 55 オグリキャップ 502
0000.04.17 東京 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 1 1 25.2 (9人) 01着 2:01.3(48.1) -0.1 0西浦勝一 57 (ディクターランド) 496
0000.05.29 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 24 4 11 06.4 (2人) 04着 2:26.9(48.2) -0.6 0西浦勝一 57 サクラチヨノオー 494
0000.07.03 中京 中スポ賞4歳S GIII 芝1800m(良) 11 8 11 01.8 (1人) 02着 1:49.0(34.5) -0.1 0西浦勝一 58 サッカーボーイ 486
0000.09.11 函館 UHB杯 OP 芝1800m(稍) 12 1 1 01.4 (1人) 01着 1:49.4(36.5) -0.3 0西浦勝一 57 (パッシングパワー) 498
0000.10.16 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 16 1 1 01.4 (1人) 01着 2:14.5(48.3) -0.2 0西浦勝一 57 (コウエイスパート) 496
0000.11.06 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 1 1 02.1 (1人) 10着 3:08.8(49.1) -1.5 0西浦勝一 57 スーパークリーク 504
0000.12.04 阪神 鳴尾記念 GII 芝2500m(良) 12 5 5 02.1 (1人) 01着 2:33.1(47.2) -0.0 0西浦勝一 58 (ハツシバエース) 500
1989.01.22 京都 日経新春杯 GII 芝2200m(良) 9 5 5 01.5 (1人) 02着 2:14.5(47.7) -0.1 0西浦勝一 58 ランドヒリュウ 498
0000.04.02 阪神 産経大阪杯 GII 芝2000m(良) 13 7 10 01.8 (1人) 01着 2:01.4(48.4) -0.6 0西浦勝一 58 ランドヒリュウ 498
0000.06.11 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 16 5 8 02.5 (1人) 07着 2:15.6(49.9) -1.6 0西浦勝一 56 イナリワン 498
0000.10.29 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 14 7 11 22.8 (6人) 04着 1:59.5(46.5) -0.4 0西浦勝一 58 スーパークリーク 496
0000.12.24 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 8 14 34.0 (8人) 06着 2:33.0(36.4) -1.3 0西浦勝一 57 イナリワン 496
1990.01.21 京都 日経新春杯 GII 芝2200m(良) 9 3 3 02.9 (1人) 02着 2:15.1(47.7) -0.1 0西浦勝一 60 トーワトリプル 508
0000.02.25 阪神 マイラーズC GII 芝1600m(重) 12 7 10 02.6 (1人) 03着 1:36.8(48.8) -0.2 0西浦勝一 60 メジロワース 506
0000.04.01 阪神 産経大阪杯 GII 芝2000m(稍) 9 7 7 04.2 (4人) 03着 2:03.1(49.5) -0.2 0西浦勝一 59 スーパークリーク 504
0000.05.13 東京 安田記念 GI 芝1600m(良) 16 7 12 10.4 (4人) 02着 1:32.7(35.0) -0.3 0岡部幸雄 57 オグリキャップ 498
0000.06.10 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 10 1 1 11.7 (4人) 03着 2:14.7(49.6) -0.7 0岡部幸雄 57 オサイチジョージ 498
0000.10.28 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 18 4 7 08.0 (3人) 01着 R1:58.2(35.7) -0.0 0岡部幸雄 58 メジロアルダン 496
0000.11.25 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 15 3 4 13.8 (8人) 06着 2:23.8(35.4) -0.6 0岡部幸雄 57 ベタールースンアップ 496
0000.12.23 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 1 2 12.0 (6人) 07着 2:34.7(35.6) -0.5 0岡部幸雄 56 オグリキャップ 496
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 枠番・馬番の太字強調は単枠指定を示す。

血統表[編集]

ヤエノムテキ血統ニジンスキー系/Menow 5.5×5=9.38%, Nearco 5×5=6.25% (血統表の出典)

ヤマニンスキー
1975 栗毛
父の父
Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
* アンメンショナブル
Unmentionable
1970 鹿毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Petticoat Palestinian
Sabana

ツルミスター
1980 鹿毛
* イエローゴッド
Yellow God
1967 栗毛
Red God Nasrullah
Spring Run
Sally Deans Fun Fair
Cora Deans
母の母
フジコウ
1964 黒鹿
* ソロナウェー
Solonaway
Solferino
Anyway
ハマミドリ トサミドリ
フジサカエ F-No.1-o


脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o ヤエノムテキ”. 日本軽種馬協会、2019-08-20確認。
  2. a b c d e f g h i j k l 『優駿』2002年4月号 53頁
  3. “ヤエノムテキ死す…GI皐月賞など2勝”. デイリースポーツ. オリジナル2014年4月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140402032123/https://www.daily.co.jp/horse/2014/03/29/0006817517.shtml 2021年7月21日閲覧。 
  4. ヤエノムテキ(JPN)”. 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル. 2022年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月14日確認。
  5. 『優駿』1991年2月号 52頁
  6. ヤエノムテキの競走成績”. ネットドリーマーズ、2019-08-20確認。
  7. 競走成績:全競走成績|ヤエノムテキ”. www.jbis.or.jp. 2022年7月13日確認。
  8. 『中央競馬全重賞競走成績集 GI編』 日本中央競馬会、1996年 292-293・756-757頁。

外部リンク[編集]