オグリキャップ

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オグリキャップ
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現役期間1987 - 1990年
欧字表記Oguri Cap
品種サラブレッド
性別
毛色芦毛
生誕1985年3月27日
死没2010年7月3日(25歳没)
ダンシングキャップ
ホワイトナルビー
母の父シルバーシャーク
生国日本国旗.png日本北海道三石町
生産稲葉不奈男
馬主小栗孝一
→佐橋五十雄
→近藤俊典
調教師鷲見昌勇笠松
瀬戸口勉栗東
厩務員三浦裕一(笠松)
→川瀬友光(笠松)
池江敏郎(栗東)
競走成績
タイトルJRA賞年度代表馬(1990年)
JRA賞最優秀4歳牡馬(1988年)
JRA賞特別賞(1989年)
JRA賞最優秀5歳以上牡馬(1990年)
JRA顕彰馬
生涯成績32戦22勝
地方競馬12戦10勝)
中央競馬20戦12勝)
獲得賞金9億1251万2000円
 
勝ち鞍
GI 有馬記念 1988年・1990年
GI マイルCS 1989年
GI 安田記念 1990年
GII NZT4歳S 1988年
GII 高松宮杯 1988年
GII 毎日王冠 1988年・1989年
GIII ペガサスS 1988年
GIII 毎日杯 1988年
GIII 京都4歳特別 1988年
GIII オールカマー 1989年

オグリキャップOguri Cap1985年3月27日 - 2010年7月3日)は、日本競走馬種牡馬である。

概要[編集]

馬名は馬主の小栗孝一氏が使用する冠名オグリと父のダンシングキャップから。

誕生時には右前足が大きく外向しており、直後はなかなか立ち上がれず、競走馬としてきちんとデビューできるかどうか不安視された。そこで稲葉不奈男牧場長は幼名としてハツラツと名付け、無事に成長するよう願いを込めた。

母馬のホワイトナルビーは母乳の出があまりよくない上に授乳を嫌がったが、雑草だろうが構わず食べるハツラツの食欲の旺盛さによって2歳の頃には他馬に見劣りしない馬体へ成長を遂げた。

1987年1月28日、笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩し、オグリキヤツプの馬名で登録[1]。鷲見はオグリキャップが3歳の時点で「五十年に一頭」「もうあんなにすごい馬は笠松からは出ないかもしれない」と述べている[2]

5月19日のデビュー戦では2着に敗れるものの、実戦経験を積んだオグリキャップはメキメキと実力を上げ、笠松時代には12戦10勝を収める。

1988年、オグリキャップは小栗孝一から佐橋五十雄へ売却され、中央競馬へと移籍し、栗東所属となった。
中央での初戦となったペガサスステークスで優勝を収めるとここでも快進撃を続け、毎日王冠まで6連勝を達成。しかしオグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝したが、このことからオグリキャップはマルゼンスキー以来の「幻のダービー馬」と呼ばれていた。また、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった[3]
しかし、マルゼンスキー世代と違ったのは、夏に函館記念でメリーナイスシリウスシンボリの先輩ダービー馬二頭を一蹴し、秋にマイルチャンピオンシップを圧勝したサッカーボーイ、皐月賞馬ヤエノムテキ、菊花賞馬スーパークリークによる天皇賞(秋)(春)制覇、その他ダービー2着のメジロアルダン、バンブーメモリー等同世代に活躍馬が多数出た事であり、不当な低評価は自然に消えて行った。クラシックには出走できなかったオグリキャップだが、ダービー優勝後に故障で戦線を離脱したサクラチヨノオーを除けば、ヤエノムテキ、スーパークリークの両クラシックホースと何度も激闘を繰り広げた事もマルゼンスキー世代とは異なりお互い恵まれた点である。1991年有馬記念制覇のダイユウサクも同世代である。

地方から中央への移籍後、タマモクロスに敗れるなど惜敗したこともあったが、第35回有馬記念を最後に引退するまで生涯32戦22勝という好成績を納めた。

とにかくよく食べることで有名で

  • 一度飼い葉桶に顔を突っ込んだら食べ終わるまで顔を上げない。唯一の例外はジャパンC出走予定の牝馬ホーリックスが自身の馬房の前を通り、近くで曳き運動をしていた時だけ
  • 1日の食事量は平均的な競走馬の食事量のおよそ倍。
  • 放牧地から厩舎に戻るまでの間に道草を食う
  • 内臓も強く、燕麦も綺麗に消化していた

などのエピソードが有名。

精神的にもタフで、現役時代から大量のフラッシュを浴びても平然としていた。一方、レースで負けると勝ち馬を睨みつけて動かないという負けず嫌いな一面も持っていた。

オグリキャップは首を良く使う走法で、沈むように首を下げ、前後にバランスを取りながら地面と平行に馬体を運んでいく走りから、笠松時代から『地を這う馬』と形容されることがあった[4]安藤勝己は初めて調教のためにオグリキャップに騎乗したとき、厩務員の川瀬友光に「どえらい馬だね。来年は間違いなく東海ダービーを取れる」と言った[5]。また秋風ジュニアのレース後、「重心が低く、前への推進力がケタ違い。あんな走り方をする馬に巡り会ったのは、初めて」と思ったという[5]。安藤のオグリキャップに対する評価は高く、3歳の時点で既に「オグリキャップを負かすとすればフェートノーザンワカオライデンのどちらか」と考えていた[6]。瀬戸口勉もオグリキャップの走り方について重心と首の位置が低いことを挙げ、杉本清から「これは馬にとっていいことなのですか」と問われた際には「いいですよ。苦しくなったらみんな首が上がってきますからね」と答え、オグリキャップはとにかく一生懸命に走ったことで、その点人気があったのではないかと述べている[7]

オグリキャップの現役当時に『スーパー競馬』のアシスタントを担当していた青山美恵子はオグリキャップの魅力について「ハンサムというよりかは、愛嬌があるってタイプかな。それに、気取ったところがなくて、いつも一生懸命に走るのがいいのよ」と述べている[8]。青山は続けて「サラブレッドというのは、強いだけ、速いだけではないということをオグリキャップに教わりました。彼を見ていると、人間に通じるような生き様を感じるのよね。私はオグリキャップに出会ったことで、本当の競馬の面白さを知った」[8]、「(1989年のジャパンカップを思い出しながら)オグリ、オグリって絶叫して、心の中で『もう少しよ、あと少しよ』って夢中だったのね。気が付いたら涙がボロボロ出ていたわ。オグリキャップってすごい『男』よ」と述べている[8]

血統評論家の吉沢譲治は「日本の競馬は小が大を制するとか、脇役が主役を食うとか、底辺から這い上がった馬が頂点をめざすとか、どんでん返しの展開とか、意外性とか、そういった波瀾万丈、立身出世のシナリオ展開があって発展してきた」と述べたうえで、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコーや第二次競馬ブームの立役者となった本馬のような「小さな牧場で生まれた地味な血統の馬が、地方からはい上がって中央のエリートを打ち負かし、ひたむきに頂点を目指す。一般大衆がそこに共感し、声援を送るのがかつてのヒーロー像だった」と述べているが[9]、それらの要素は1990年に社台グループ吉田善哉アメリカ合衆国から1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)で輸入し[10]、オグリキャップと同じ1994年にデビューした自身の初年度産駒だけでなく、自身の後継種牡馬、さらに母の父として大レースを席巻してきたサンデーサイレンス[13]の血を持つ競走馬の活躍とその血の寡占によって骨抜きにされてしまったため[14]、これがファンの競馬離れと周辺メディアの停滞を招く一因になったことは否めないと述べている[9]

オグリキャップと対戦した主な競走馬[編集]

オグリキャップに先着した経験がある競走馬のみ記載(斜体は先着した競走、太字はさらに1着となった競走)。その他の馬については競走回顧の記事を参照。

カッコ内は対戦した主なレース

  • スーパークリーク (第33回有馬記念、第100回天皇賞、第9回ジャパンカップ、第34回有馬記念
  • イナリワン (第40回毎日王冠、第100回天皇賞、第9回ジャパンカップ、第34回有馬記念、第31回宝塚記念)

(スーパークリークおよびイナリワンについては平成三強も参照)

  • タマモクロス第98回天皇賞第8回ジャパンカップ、第33回有馬記念)
  • ペイザバトラー第8回ジャパンカップ、第9回ジャパンカップ)
  • ホーリックス第9回ジャパンカップ
  • オサイチジョージ (第40回安田記念、第31回宝塚記念第102回天皇賞、第10回ジャパンカップ、第35回有馬記念)
  • ヤエノムテキ (第34回有馬記念、第100回天皇賞、第40回安田記念、第31回宝塚記念、第102回天皇賞第10回ジャパンカップ、第35回有馬記念)
  • ベタールースンアップ第10回ジャパンカップ
  • サクラホクトオー第34回有馬記念
  • ランニングフリー (第98回天皇賞、第8回ジャパンカップ、第100回天皇賞、第9回ジャパンカップ、第33回有馬記念、第34回有馬記念第102回天皇賞、第35回有馬記念)
  • メジロアルダン (第40回毎日王冠、第100回天皇賞、第102回天皇賞、第35回有馬記念)
  • バンブーメモリー(第40回安田記念、第6回マイルチャンピオンシップ、第9回ジャパンカップ、第31回宝塚記念、第102回天皇賞
  • カコイーシーズ第10回ジャパンカップ
  • ホワイトストーン第10回ジャパンカップ、第35回有馬記念)
先着したことのない競走馬

脚注[編集]

  1. 当時地方競馬では馬名に促音・拗音を使用できなかった。解禁は1990年。
  2. 有吉・栗原1991、18-19頁。
  3. 光栄出版部(編)1996 pp.34-35
  4. 小栗1994、46頁。
  5. a b 光栄出版部(編)1996、106頁。
  6. 有吉・栗原1991、18頁。
  7. "芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に(『優駿』2010年9月号、53頁。)
  8. a b c 狩野1991、89-90頁。
  9. a b c d 吉沢2011、10-11頁。
  10. ポーリック2002、211-212頁。
  11. 10R 皐月賞|1995年4月16日(日)3回中山8日|JBISサーチ(JBIS-Search)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2020年1月26日確認。
  12. 9R 日本ダービー|1995年5月28日(日)3回東京4日|JBISサーチ(JBIS-Search)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2020年1月26日確認。
  13. 1995年の牡馬クラシック戦線においてジェニュインが優勝した皐月賞タヤスツヨシが優駿した東京優駿にはオグリワンも出走していた(皐月賞16着[11]、東京優駿17着[12])。
  14. ネオユニヴァース産駒のヴィクトワールピサが優勝した2010年の有馬記念においては、このレースに出走した16頭中12頭がサンデーサイレンスを擁して大成功を収めた社台グループの生産馬であり[9]、反対にサンデーサイレンスの血を持っていない出走馬・社台グループ以外の生産馬はいずれも4頭だったため、これを吉沢は「テレビでいうならどの局にチャンネルを切り替えても、登場するのはドラマ、バラエティ、ニュース、天気予報に至るまで同じ人間ばかり、内容も分かり切ったものばかりというマンネリ競馬を作り出した」と例えている[9]

参考文献[編集]

  • 有吉正徳・栗原純一 『2133日間のオグリキャップ 誕生から引退までの軌跡を追う』 ミデアム出版社、1991年。ISBN 4944001215
  • 小栗帽子 『オグリキャップよ永遠に―不治の病を克服し、2世たちはターフに舞う』 徳間書店1994年。ISBN 4198600872
  • 狩野洋一 『ターフの伝説 オグリキャップ』 三心堂〈Humanics Essay Series〉、1991年。ISBN 4915620409
  • 『名馬列伝 オグリキャップ』 光栄出版部(編)、光栄、1996年。ISBN 4877192042
  • 「"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に」、『優駿』2010年9月号、中央競馬ピーアール・センター、2010年、 22-61頁。
  • 吉沢譲治 『血のジレンマ サンデーサイレンスの憂鬱』 NHK出版、2011年。ISBN 4140814705