チェコスロバキア

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国旗

チェコスロバキア、チェコスロヴァキア中央ヨーロッパに存在した連邦制民主主義国家

概要[編集]

前史[編集]

チェコスロバキアは、チェコスロバキアの合成国名である。両者の文化的な違いは小さく、お互い言葉も通じる。別の民族との意識もほとんど無かったが、10世紀チェコ東フランク王国(後のドイツ)に、スロバキアポーランドに、11世紀にはハンガリーに併合され、以降別の国としての道を歩むこととなる。なお以降、プラハ神聖ローマ帝国の首都に、ブラチスラヴァハンガリー王国の首都になったことがある。

1490年、スロバキアを支配していたハンガリーの王統が途絶え、ボヘミアヴラジスラフがハンガリー王となった。これにより、チェコとスロバキアは同じ君主が治める形となる。このボヘミア王の血統もその後途絶え、オーストリアを支配していたハプスブルク家が両国の王を継承、以降オーストリア領として近代に至る。

誕生〜社会主義連邦制まで[編集]

民族自決を掲げたヴェルサイユ条約により、オーストリア=ハンガリー帝国の北部に位置するスラヴ人地域が独立することとなった。ボヘミア王国モラヴィア辺境伯領シロンスク公国、およびハンガリー王国の一部の領域をもって、チェコスロバキアとして独立した。ボヘミアモラヴィアシロンスクが現在のチェコで、ハンガリーから編入された領域が現在のスロバキア(とウクライナの一部)である。前述のとおり、チェコとスロバキアは民族的な違いが小さいことから、合わせて一つの国になった。

しかし、1938年イギリスフランスの不介入政策により発生したミュンヘン会談が開催。チェコ地域に住まうドイツ人の保護を名目として、ズデーテン地方などドイツに対する要塞が建っていた地域の割譲を要求するなどのナチス・ドイツの狡猾な外交政策によりチェコスロバキアは解体されチェコ部分はベーレン・メーレン保護領に、スロバキア部分は実質的なドイツの傀儡国家であるスロバキア共和国となった。ナチスはチェコ人へ大弾圧を加えたため、一部のチェコ人達はレジスタンスを結成し総督ハイドリヒを爆殺するなどの抵抗活動を続けた。1945年ドイツの敗戦・ソ連による解放により、国家の与党が社会主義政党であるチェコスロバキア共産党となった。ただしこの時に、ザカルパッチャ地方(現在のウクライナの一部)がソ連に併合され、国土がやや縮小した。1960年には国名をチェコスロバキア社会主義共和国と改名した。また1969年にはチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国による連邦制を敷くことを発表した。

プラハの春の発生[編集]

1968年、当時のチェコスロバキアの大統領・共産党総書記であるアレクサンデル・ドプチェク「人間の顔をした社会主義」を目指したところ、これを、「民主主義化し、西側に行かれるのではないか」と考えたブレジネフがソ連軍などのワルシャワ条約機構軍に侵攻を命じ、条約機構軍が変革運動を鎮圧する目的でチェコスロバキアに侵攻した。結局ソ連軍の勝利に終わりドプチェク政権は改革をなかったことにするモスクワ議定書にサインした。

余談だが、この「プラハの春」で中国ルーマニアは共産主義国にもかかわらずチェコ側支援に回った一方で、アメリカなど西側諸国はチェコ寄りの中立姿勢を保った。なぜなら、当時の中国では珍宝島事件などでのソ連との対立が大きかった。要するに東側での仲間割れとしての意味合いが強かったというわけである。

解体[編集]

1993年にチェコ地域とスロバキア地域の経済格差を理由として連邦制を解消し、それぞれチェコ共和国スロバキア共和国として独立した。なお、この解体はユーゴスラビアなどで起きた分離独立などを止める勢力と独立勢力による独立戦争が起こらず平和的に独立がなされたことから、一部の西側メディアではこれを離婚になぞらえ「ビロード離婚」と紹介している。

地理[編集]

現在のチェコとスロバキアの全域を領有していた。東西冷戦期における隣接する国は以下の通り。

チェコスロバキアに隣接する国 (東西冷戦期時点)
東ドイツ ポーランド
西ドイツ チェコスロバキア ソ連
オーストリア ハンガリー

なお、第二次世界大戦前は、現在のウクライナの一部(ザカルパッチャ州)も領有していた。

住民はチェコ人、スロバキア人が中心だが、1945年以前は多民族国家であった。ドイツやオーストリアとの国境沿い(いわゆるズデーテン地方など)はドイツ系住民の方が多く、ナチス・ドイツの支配下ではドイツの一部として扱われた。スロバキアにはハンガリー人が多く住む他、第二次世界大戦前に支配していたザカルパッチャ地方を中心にウクライナ人も多かった。

注釈[編集]