ラインハルト・ハイドリヒ

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共産主義の貯水地である東方ユダヤ人は、
総統の意思によって絶滅させねばならない

 - ラインハルト・ハイドリヒ

ラインハルト・ハイドリヒ(1940年)

ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(独:Reinhard Tristan Eugen Heydrich)とは、金髪碧眼の秘密警察長官である。ナチスの中でも特に漆黒の人物であり、「金髪の野獣」として恐れられた。

生涯[編集]

  • 1904年ドイツ帝国のザクセンで生まれる。父のリヒャルトは音楽研究家であったため、幼い頃のハイドリヒは音楽が好きな少年として育ったようである。学校では勉強・スポーツともに優秀な成績を修めたが、彼の出自がカトリック系だったこと[注 1]や彼の祖母がユダヤ人と囁かれていたことが原因でいじめの対象となった。なお、彼の祖母は名前がユダヤ風なだけであり実際はユダヤ人ではなかった。
  • 1914年第一次世界大戦が勃発すると、ハイドリヒは他の多くのドイツ人とともに開戦を喜び、右翼の義勇軍に参加するようになった。反ユダヤの活動にも加わっていたようで、この頃から彼は既に人種差別主義者であったと思われる。しかし、戦争でドイツは敗北し経済は壊滅、ハイドリヒの家庭も崩壊した。
  • 混乱も落ち着き始めた1922年、ハイドリヒは海軍に入隊する。しかし、少々内気であった彼は他の隊員と馴染むことができなかった。普段はおとなしいにも関わらず音楽の話題になると急に饒舌になる模範的陰キャだったため、ユダヤ人疑惑も災いしいじめを受けてしまった。そんな中でも彼は諦めずに実力を発揮し、1928年には才能を認められて中尉にまで出世している。
  • 一方で、ハイドリヒは女癖が悪く複数の女性を弄んでは捨てていた。ところが、運が悪いことに彼の捨てた女性の中には海軍とのコネを持つ軍需企業の重役の娘がいたのである。これにより彼は軍事裁判にかけられる羽目になったが、ハイドリヒは反省するどころか相手の女性を貶めたため不名誉除隊となってしまった。
  • 無職となったハイドリヒは1931年ナチスに入党した。金髪碧眼、高身長、海軍で情報将校であったことから彼は親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラーに気に入られ、ナチス諜報部のトップに任命された。当時の諜報部は部員がわずか数人程度の弱小組織であったが、ハイドリヒは死にものぐるいで働き諜報部をSD(親衛隊情報局)にまで発展させた。1934年には秘密警察ゲシュタポの最高責任者にも任命された。
  • 1933年、ナチス初の強制収容所であるダッハウ強制収容所設立に関与した。1934年にはナチスの指導者アドルフ・ヒトラーの命令でレームらナチス突撃隊(SA)幹部を殺害する「長いナイフの夜事件」を引き起こし、シュトラッサーなどドイツ国防軍内の反ヒトラー派暗殺にも携わった。
  • ハイドリヒの最大の成果の一つと言われているのが1930年代赤軍大粛清である。ハイドリヒは『トハチェフスキーら赤軍将校たちがクーデターを計画中』との文章をソ連領内に流し込んだ。当時人間不信の極みであったソ連最高指導者ヨシフ・スターリンは激怒し、ろくに調べもせず赤軍幹部を片っ端から粛清した。この結果、優秀な将軍を失った赤軍は急速に弱体化することなった。
  • 1939年に親衛隊の組織が改編され、SDとゲシュタポを統合した国家保安本部(RSHA)[注 2]が設立されると、ハイドリヒはこの長官に就任した。彼の率いるRSHAは、ドイツ国内及び占領地域の「敵性分子」の摘発、拷問、処刑を行った。
  • 第二次世界大戦が開戦すると、移動虐殺部隊アインザッツグルッペン編制にも携わった。アインザッツグルッペンはヨーロッパ各地で虐殺を行い、数百万人を処刑したと言われている。
  • 1941年に、活動内容を評価したヒトラーによってべーメン・メーレン保護領(チェコ)総督に任命された。ハイドリヒは反独レジスタンスには大弾圧を加える一方で、従順なチェコ人労働者は丁重に取り扱い、雇用保険の創設や年金の増額も行っている。この「飴と鞭」の政策により、ハイドリヒのチェコ統治は安定した。
  • 統治に成功したハイドリヒは、やがてオープンカーのベンツでプラハ中を走り回るするようになった。「私のチェコ人達が、どうして私を撃とうとするのかね」と言い、護衛車両もつけなかった。しかし、結果的にこれが命取りとなった。1942年5月27日、プラハ市内を車で移動中にイギリスが送り込んだ暗殺者によって爆殺された。享年38。

逸話[編集]

ハイドリヒは先述のユダヤ人疑惑を相当コンプレックスに感じていたようである。ある晩、酔って仕事から帰ってきたハイドリヒは鏡に写った自分に向かって「ユダヤの豚め!!」と言い放ち拳銃を乱射したという逸話が残っている。彼が大虐殺に手を出してしまったのもユダヤだと思われたくないという葛藤の申し子だったのかもしれない(筆者の個人的見解です)。

注釈[編集]

  1. ドイツの多くの家庭はプロテスタントであった。
  2. 「エルエスハーアー」と読む。