金閣寺

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もしかして: 鹿苑寺 (曖昧さ回避)
きんかくじ
金閣寺
金閣寺.jpg
所在地603-8361
京都府京都市北区金閣寺町1
山号北山
宗派臨済宗相国寺派
寺格相国寺山外塔頭
本尊観音菩薩
創建年1397年(応永4年)
開山夢窓疎石
開基足利義満
正式名鹿苑寺
札所等神仏霊場巡拝の道93番
備考壁画などが国指定重文
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金閣寺(きんかくじ)は、京都府京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺。鹿苑寺(ろくおんじ)とも称される。銀閣寺と共に有名な寺である。昭和25年に焼失した建築については鹿苑寺金閣を参照。

概要[編集]

日本の宝だけではなく、世界の宝でもある。応永元年(1394年)に室町幕府の第3代将軍足利義満が将軍職を嫡子義持に譲った際、隠居所として当時は西園寺公経の別邸があった北山の地を譲り受けて自らの別邸を建立したのがその始まりである。当時の足利義満は権力がその絶頂期にあり、鏡湖池に臨んで建つ三層の楼閣で舎利殿として金箔に覆われた山荘を建立した。これが金閣であり、その壮麗さは「西方極楽」とまで称されるほどだった。

当時はこの金閣の他に寝殿、東対、小御所、奥御会所、中門廊、殿上問、堂御所、釣殿、惣門、四足門、持仏堂、惣社などの建物があった。応永15年(1408年)に足利義満が死去すると、義持はその遺命として禅刹に改め、寺号を義満の法号から鹿苑寺と称させた。しかし義持は父・義満の政策を忌み嫌っており、義満没後に金閣以外の建物の多くを破却した。

応仁の乱が起こって京都が荒廃し、永禄年間までに鹿苑寺の堂宇は金閣と不動堂の2つを残すのみとなる。現在の方丈・書院などの多くの建物は江戸時代の第4代将軍・徳川家綱時代の延宝年間に再建された。

明治30年(1897年12月28日に旧国宝に指定され、明治36年(1903年)から明治37年(1904年)にかけて解体修理が行われた。

創建当時唯一の遺構で国宝にも指定されていた金閣は、昭和25年(1950年)の放火により焼失する(金閣寺放火事件)。現在の金閣は昭和30年(1955年)に再建されたものである。再建時には国や地元財界などの支援で、残された詳細な図面に基づいて再建事業が行なわれた。なお、放火犯は若い見習い僧侶であり、後に三島由紀夫によって小説の題材とされている。

庭園は西園寺氏の北山第の旧庭を改造したもので、当時から有名だったものを足利義満がさらに改造して室町時代の代表的な名庭とした。鏡湖池を中心とする池泉回遊式庭園で、約13万2000平方メートルの境内のうち、約9万3000平方メートルを庭園が占め、鏡湖池は約6万600平方メートルに及ぶ。池中には葦原島・中島・岩島などの大小の島や赤松石、丸山八海石、畠山石などの奇岩怪石などが配されており、平安時代を思わせる庭園にもなっている。この庭園は国の特別名勝・特別史跡に指定されており、金閣の北にある安民沢や竜門瀑は共に西園寺氏時代の庭園の遺跡である。安民沢の南東には銀河泉があり、義満が茶の水に用いたという名水がある。

なお、安民沢の東の茶席である夕席亭は江戸時代前期に建立されたもので、金森宗和後水尾天皇の臨幸のために建立したとされるが、現在の建物は明治7年(1874年)に再建されたものである。

重要文化財として大書院壁画50面、絹本著色足利義満像2幅などもある。

関連項目[編集]

アクセス等[編集]