鳥居強右衛門

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鳥居 強右衛門(とりい すねえもん、天文9年(1540年) - 天正3年(1575年)5月)は、戦国時代日本足軽で、奥平家家臣。諱は勝商(かつあき)

生涯[編集]

三河国宝飯郡市田村(現在の愛知県豊川市)の出身で、性は剛直で人に屈することを好まず、そのため強右衛門と称したといわれている。長篠の戦い前の彼の経歴に関しては不明である。

元亀4年(1573年)4月に武田信玄が死去すると、織田信長徳川家康による反攻が開始され、それまで武田方についていた奥平貞能奥平信昌父子が武田勝頼を見限って家康に寝返った。勝頼はこの寝返りに激怒して貞能・信昌から提出されていた人質処刑した。家康は信昌に長女の亀姫を嫁がせることを約束して、対武田氏の最前線である三河国長篠城を守備させた。

勝頼は長篠城を天正3年(1575年)5月1日に包囲し、金堀人夫を動員してトンネルを掘って長篠城を地下から攻め立て、さらに城兵500に対して武田軍1万5000という圧倒的兵力差を生かして力攻めした。その結果、本丸以外の城郭は落とされ、兵糧も5日ほどになってしまう。長篠城は寒狭川(豊川)と大野川(宇連川)が合流する突角の切り立つ断崖上にある城で、城が包囲されている以上はこの断崖を降りて激流に飛び込んで泳ぎ渡って、岡崎城に飛び込んで援軍を要請するしか方法は無かった。だが、この任務はある意味過酷であり、武田側に見つかれば殺されるのは間違いない。しかし、鳥居はその役目を引き受けた。

5月14日夜、鳥居は城の断崖を降りると、寒狭川に張られていた武田側の鳴子網を突破して1里先を泳いで渡った。翌未明、長篠城の向かいの山に登って脱出成功の狼煙を上げると、自らは岡崎城目指して突っ走った。鳥居はまず、信昌の父である貞能に会って長篠城の窮状を告げ、そして貞能と共に岡崎城にいる家康の下に登城して言上した。家康からは信長の後詰が既に到着している事、長篠に赴く準備も整っている事などが告げられ、信長と自らも今宵に出陣する手筈であることを知らされて大喜びする。その吉報を携えて鳥居は城に対して援軍が向かっている旨の狼煙を上げて知らせた上で[1]、自らも長篠城に入城しようとした。しかし、相次ぐ狼煙に武田側は警戒を従来より厳しくしており、鳥居は敵陣に紛れ込んで武田兵に扮して竹束を担ぎ、隙をうかがって入城しようとしたが、自らの脛巾の色が違う事を警戒していた武田側の指揮官に悟られ、捕縛されてしまった。そして、勝頼の前に引き出されて尋問を受け、織田・徳川の連合軍が後詰に来ていることを白状してしまう[2]

勝頼は後詰が来る前に長篠城を落とすため、鳥居に対して助命、並びに甲斐国において過分の知行を与えるので、その見返りに「信長と家康の出陣は叶わぬ。城を明け渡すのがよろしかろう」と城に向かって叫ぶように命じた。それに対して鳥居は「お命を助けて頂けるならば、何でもいたします」と喜んで応じた。

三河物語』によると、この時鳥居は長篠城からわずか40メートルほどの所に引き出されて次のように叫んだという[3]

城中の衆、出てきて聞かれよ。鳥居強右衛門は召し捕られてしまった。勝頼公から信長公は来ないと言えば、命を助け、知行まで下さると言われたが、嘘はつけぬ」と叫んだ。

そして、『寛政重修諸家譜』平氏良文流奥平の項に次のようにある。

織田右府公、我が君と共に、当城の後詰としてご発向あらんこと、両3日を過ぎることはござらぬ。その間は堅固に城を守って、あえて怖れることなどありませぬ。これが今生の別れの言葉でござる

と、叫んだといわれる。

この鳥居の言葉に、長篠城兵は勇気100倍、信長と家康の後詰が駆けつけるまで耐え抜いた。そのため、武田側ではこの鳥居の命を賭した忠誠に対して逆に感動を覚えて助命を勝頼に願い出る者が出たが、勝頼はこれを無視し、激怒して城兵への見せしめとして鳥居は磔にされたという。36歳没。

戦後[編集]

鳥居の死を賭した勇気と忠義は敵味方を問わずに感動され、武田家の家臣・落合道次(左平次)は磔にされて殺される直前あるいは直後の褌姿の鳥居を絵にして、自らの旗印にしたという。落合は武田家滅亡後、徳川氏に仕えて「鳥居強右衛門死節の図」の背旗を子孫に伝えている。

信長もこの勇士の命を賭した忠義に感動し、手厚く葬って墓も建立したという。一方、磔に処した勝頼は、逆に非難を浴びたという。

鳥居の子孫は代々強右衛門を名乗り、江戸時代に奥平松平家に仕え厚遇され、幕末の鳥居商次家老となった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 家康は鳥居に、翌日には後詰に向かうから今日は岡崎で休み、明日従軍するように勧めたが、鳥居は仲間が苦しんでいるのに自分だけ安全な場所にいるわけにはいかないと断ったとされている。
  2. 一説には白状したのではなく、鳥居が貞能がしたためた信昌宛の書状を隠し持っていたのが発覚して、後詰の到着も武田に知られたといわれる。
  3. 一説に、この時すでににされて城中に見せつけるようにした上で叫ばされたともいう。

外部リンク[編集]