高麗王

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高麗王(こうらいおう)[1]は、高麗918年 - 1392年)の国王で、姓は王氏開城王氏)。各王の詳細は以下の表で王名()を参照。

概要[編集]

王建が高麗を建国したが、第23代高宗1258年元朝に服属した。後の第25代忠烈王1287年からは高麗王は征東行省達魯花赤を兼ね、元朝の属国となったが、恭愍王時代の1356年に元朝の衰退とともに元朝を離れ、に服属した。13世紀から14世紀までは元朝の中央官庁「中書省」の出先機関である「行中書省」の1つであり、征東行中書省が正式名称である。元朝の滅亡までこれは続き、高句麗との混淆を避けるために、中国では王氏高麗と呼んでいる。なお、元朝服属時代の第23代から第30代国王の諡号には元朝の忠臣を示す「忠」が付けられている。

君主の称号[編集]

元朝への服属前は、中華に対しては国王と称していたが、それ以外の主に国内向けでは皇帝天子と称しており、その場合は高麗皇帝もしくは海東天子と呼称された。海東は朝鮮を指す雅語である。

来歴[編集]

中国陝西省京兆郡出身の康叔の次男の67代子孫[2][3][4]康虎景の息子が康忠であり、康忠は、伊帝建康宝育を授かる。康宝育は姪の徳周を娶り娘の康辰義をもうけ、その康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが王帝建である。王帝建の父の中国人は中国皇族[5]、『編年通録』と『高麗史節要』では粛宗、『編年綱目』では宣宗である[5][6]。父の中国人が新羅に来た時に、康宝育の娘の康辰義との間に王帝建は生まれた[5]。王帝建は、父を探しに唐に行くため黄海を渡河していた途上、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)と出会い、王帝建は、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)の駙馬となる。『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘である[7]。そして王帝建と西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)との間に息子の王隆が生まれる[5]。その王隆の息子が高麗の初代王王建である[8]

チェ・ワンス(朝鮮語: 최완수澗松美術館研究室長)は、王建の祖先一族は、朝鮮半島の商業活動の中心である松嶽山(現在の開城市)一帯の商業勢力だった豪商であり、中国人商人と直接交易をおこない、莫大な富を築いた。従って、唐の皇族だという王帝建の父は、事実は豪商だった一族のもとに商取引のため出入りしていた中国人商人であり、その中国人商人と康辰義の間で王帝建が誕生したと解釈するのが自然であり、王帝建の父が中国人商人であることを『高麗史』や『高麗史節要』では、粛宗だと高めているが、おそらくは高麗側の推量であった可能性があり、いずれにせよ王帝建が康宝育の家に1ヶ月余り滞在した後に去った中国人商人の青年の息子であったことは間違いなく、それは豪商であった一族のもとには、数多くの中国人商人が商売の取引のため出入りしていたこと、また王帝建が16歳の時に、王帝建の父が証拠物として与えた弓と矢を持って、父を探しに商船に乗りこみ唐へ行こうとしたことから、そのように再解釈して大きな合理性の無理がないと述べている[9]

高雲基延世大学)は、「作帝建に関連した話である。彼は唐の皇族だという人物が新羅に来て、この地の女、辰義と結婚して生んだ息子である。のちに作帝建は、父を探しに行く途中に西海の龍の娘と結婚し、息子の龍建を生んだのだが、この人物がまさに王建の父である。『龍』が中国系の何らかの象徴として見るなら、王建の家系はほとんど中国系のはずで、曾祖父から調べても王建は間違いなく中国系3世」と述べている[5]

宇山卓栄は、「9世紀末の衰退とともに新羅も衰退すると、満州人の勢力が再び大きくなります。10世紀開城に本拠を置く満州人の豪族の王建が新羅末期の反乱軍のなかから頭角を現わします。王建は『高麗』を建国して、新羅を滅ぼし、936年、朝鮮を統一しました。…高麗は王建をはじめ、ツングース系満州人を支配層とする朝鮮の統一王朝です。王建ら一族は、中国との海上貿易で富を得た商業豪族でした。そのため、王建は漢人系の血も引いています。王建は富を背景に、庾黔弼ら北方の満州人軍閥を取り込み、強大な軍隊を養成しました。王建のもと、満州人は結束し、韓人を屈服させて、朝鮮半島を支配します。高麗は首都を開城に置きます。満州人である高麗人は、漢江を越えた南側の韓人のエリアに首都を置きませんでした」と述べている[10]

宮脇淳子は、「九一八年、高麗が建国されます。かつての高句麗の後裔だというので、『高麗』を名乗りました。しかし、高麗を建てた王建という人もまた満洲人の祖先につながっていくような人で、朝鮮人ではないのです。現在、朝鮮英語で『コリア』というのは、『高麗』の朝鮮語の発音『コリョ』からきています。だからといって、高麗人が直接今の朝鮮民族につながっているのかというと、そうとはいえません。今の朝鮮民族は高句麗人も高麗人も渤海人でさえ、みなコリア民族だったといい、あたかもがずっとつながっているかのように言いたがりますが、残念ながら違います。そもそも、『コリア民族』という一つの民族古代からあったと考えること自体がファンタジー、夢物語であり絵空事なのです」と述べている[11]

八幡和郎は、「宝育は兄の娘の徳周を娶って娘の辰義をもうけましたが、辰義は素性の知れない中国人の商人と結ばれて作帝建(懿祖)を産みました」「父方の系譜において中国人の血を引く人物であることはたしかです」と述べている[12]

高麗王は唐人の家系の出身であるが、王建の活躍を描いた韓流ドラマ太祖王建』には、王建の父・王隆が「先祖は彼(張保皐)とともに唐から新羅に渡ってきた」と王建に語るシーンがある[13]

高麗王一覧及在位一覧[編集]

在位 廟号 諡号 別名 在位 [14]
[15]
備考
追封 国祖 元徳大王 追封
追封 懿祖 景康大王 王帝建 追封
追封 世祖 威武大王 王隆 追封
1 太祖 応運光烈大定睿徳章孝威穆仁勇神聖大王 王建 918年-943年 世祖
神懿王后安辺韓氏
2 恵宗 仁徳明孝宣顕高平景憲義恭大王 王武 943年-945年 王建
義和王后等
3 定宗 至徳章敬正粛令仁簡敬荘元文明大王 王堯 946年-949年 王建
4 光宗 弘道宣烈平世粛憲懿孝康恵大成大王 王昭 949年-975年 王建
5 景宗 至仁成穆明恵順熙靖孝恭懿献和大王 王伷 975年-981年 王昭
追封 戴宗 睿聖和簡恭慎顕献宣慶大王 王旭 追封 王建
6 成宗 康威章憲光孝献明襄定文懿大王 王治 981年-997年 戴宗 王旭 遼(契丹)
宋→遼
7 穆宗 孝思威恵克英靖恭宣譲大王(宣霊大王) 王訟 997年-1009年 王伷
追封 安宗 憲景聖徳孝懿大王 王郁 追封 王建
8 顕宗 大孝徳威達思元文大王 王詢 王安世 1010年-1031年 安宗 王郁 遼→宋
9 徳宗 宣孝剛明光荘敬康大王 王欽 1031年-1034年 王詢
10 靖宗 弘孝安懿康献英烈文敬容恵大王 王亨 1035年-1046年 王詢
11 文宗 章聖剛正明戴仁孝大王 王徽 1046年-1083年 王詢 遼 宋
12 順宗 英明靖憲宣恵大王 王勲 1083年 王徽
13 宣宗 安成寬仁顕順思孝大王 王運 1083年-1094年 王徽
14 献宗 恭殤定比懐孝大王 王昱 1094年-1095年 王運
15 粛宗 文恵康正明孝大王 王顒 1095年-1105年 王徽
16 睿宗 明烈斉順文孝大王 王俁 1105年-1122年 王顒 [16]
17 仁宗 克安恭孝大王 王楷 1123年-1146年 王俁
18 毅宗 剛果荘孝大王 王晛 1146年-1170年 王楷
19 明宗 皇明光孝大王 王晧 1170年-1197年 王楷
20 神宗 敬恭靖孝大王 王晫 1197年-1204年 王楷
21 熙宗 仁穆誠孝大王 王韺 1204年-1211年 王晫
22 康宗 浚哲文烈亶聡明憲貽謀穆清元孝大王 王祦 王璹 1211年-1213年 王晧
23 高宗 忠憲安孝大王 王皞 1213年-1259年 王祦 →元(蒙古)
追封 英宗 - 王淐 追封 王皞
24 元宗 忠敬順孝大王 王禃 王倎 1260年-1274年 王皞
25 忠烈景孝大王 王昛 王諶/
王賰
1274年-1298年
復位1298年-1308年
王禃
斉国大長公主
忽都魯掲里迷失
26 忠宣憲孝大王(太尉王) 王璋 益知礼普花 1298年
復位1308年-1313年
王昛
薊国大長公主
宝塔実憐
27 忠粛懿孝大王 王燾 阿剌忒訥失里 1313年-1330年
復位1332年-1339年
王璋
曹国公主 金童


濮国長公主: 亦憐真八剌
慶華公主:伯顔忽都

28 忠恵献孝大王 王禎 普塔失里 1330年-1332年
復位1339年-1344年
王燾
元国関西王焦八の娘
徳寧公主 亦憐真班
29 忠穆顕孝大王 王昕 八思麻朶児只 1344年-1348年 王禎
30 忠定大王 王㫝 搠思監朶児只 1349年-1351年 王禎
31 恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王(恭愍王) 王顓 伯顔帖木児 1351年-1374年 王燾
魯国大長公主 宝塔失里
元→明
32 禑王(驪興王) 王禑 辛禑/
牟尼奴
1374年-1388年 王顓 明→元
33 昌王(允王) 王昌 辛昌 1388年-1389年 王禑
34 恭譲大王 王瑤 1389年-1392年

系図[編集]

系図を第17代までとそれ以降に分割して示す。この系図は各王朝での世子、王位の争いを理解する上で重要である。上付き数字は高麗歴代王の順序を示し、下段の括弧内は母の名である。

系図(第17代まで)[編集]


太祖 王建1恵宗 王武2
荘和王后呉氏)
興化宮君
(義和王后)
太子 王泰
(神明順成王后劉氏)
太子 王済
(宮人哀伊主)
定宗 王堯3
(神明順成王后劉氏)
慶春院君
(文成王后朴氏)
光宗 王昭4
(神明順成王后劉氏)
景宗 王伷5
(大穆王后皇甫氏)
穆宗 王訟7
(献哀王后皇甫氏)
哀殤君 王昉
(容懿麗妃韓氏)
文元大王 王貞
(神明順成王后劉氏)
孝和太子
(大穆王后皇甫氏)
徳宗 王欽9
(元成太后金氏)
楽浪侯 王璥
(容懿麗妃韓氏)
證通国師
(神明順成王后劉氏)
孝徳太子
(宣義太后柳氏)
靖宗 王亨10
(元成太后金氏)
開城侯 王暟
(容懿麗妃韓氏)
王旭
(神静王后皇甫氏)
成宗 王治6
(宣義太后柳氏)
文宗 王徽11
(元恵王后金氏)
順宗 王勲 12
(仁睿太后李氏)
献宗 王昱 14
(思粛太后)
敬章太子
(宣義太后柳氏)
王基
(元恵太后金氏)
宣宗 王運 13
(仁睿太后李氏)
漢山侯 王昀
(元信宮主)
王郁
(神成王后金氏)
顕宗 王詢8
(献貞王后皇甫氏)
王忠
(宮人韓氏)
粛宗 王顒 15
(仁睿太后李氏)
睿宗 王俁16
(明懿太后柳氏)
仁宗 王楷17
(順徳王后李氏)
王位君
(貞徳王后柳氏)
大覚国師 王煦
(仁睿太后李氏)
上党侯 王佖
(明懿太后柳氏)
仁愛君
(貞徳王后柳氏)
常安公 王琇
(仁睿太后李氏)
円明国師 澄儼
(明懿太后柳氏)
元荘太子
(貞徳王后柳氏)
生僧統 王竀
(仁睿太后李氏)
帯方公 王俌
(明懿太后柳氏)
詳細は子女一覧参照金官侯 王㶨
(仁睿太后李氏)
大原公 王侾
(明懿太后柳氏)
卞韓侯 王愔
(仁睿太后李氏)
斉安公 王偦
(明懿太后柳氏)
楽浪侯 王忱
(仁睿太后李氏)
通義侯 王僑
(明懿太后柳氏)
辰韓侯 王愉
(仁敬賢妃李氏)
扶余侯 王㸂
(仁敬賢妃李氏)

系図(第17代から26代まで)[編集]


仁宗 王楷17
(順徳王后李氏)
毅宗 王晛18
(恭睿太后任氏)
孝霊太子 王祈
(荘敬王后)
大寧侯 王暻
(恭睿太后任氏)
明宗 王晧19
(恭睿太后任氏)
康宗 王祦22
(光靖太后金氏)
高宗 王皞23
(元徳太后柳氏)
元宗 王倎24
(安恵太后柳氏)
忠烈王 王賰25
(順敬太后金氏)
忠宣王 王璋26
忽都魯掲里迷失
元敬国師 冲曦
(恭睿太后任氏)
善思
(庶子)
安慶公 王淐
(安恵太后柳氏)
始陽侯 王珆
(慶昌宮主柳氏)
江陽公 王滋
(貞和宮主王氏)
洪機
(庶子)
順安公 王琮
(慶昌宮主柳氏)
小君 王湑
(侍婢盤 珠)
洪枢
(庶子)
昌原公 王祉
(成平王后)
洪規
(庶子)
始寧侯 王禕
(成平王后)
洪鈞
(庶子)
慶原公 王祚
(成平王后)
洪覚
(庶子)
円静国師 鏡智
(成平王后)
洪貽
(庶子)
冲明国師 覚膺
(成平王后)
神宗 王晫20
(恭睿太后任氏)
熙宗 王韺21
(靖和太后金氏)[17]
 
襄陽公 王恕[18]
(靖和太后金氏)
守司空 王瑋[19]
守司空 王㻂3人省略
始安公 王絪守司空 王禎
永安公 王僖西原侯 王瑛益陽侯 王玢淳化侯 王瑈
守司空 王謜瑞興君 王琠[20]省略

系図(第26代から34代まで)[編集]


忠宣王
王璋26
(荘穆王后 忽都魯掲里迷失)
世子 王鑑
(懿妃 也速真
龍山元子
曹国長公主 金童
忠穆王
王昕29
徳寧公主 亦憐真班
忠粛王
王燾27
(懿妃 也速真
忠恵王
王禎28
(明徳太后)
忠定王
王㫝30
(禧妃尹氏)
徳興君 王譓
(塔思帖木児)
(不明)
釈器
(銀川翁主林氏)
恭愍王
王顓31
明徳太后
王禑32
(般若[21]
王昌33
(謹妃李氏)[22]
益陽侯 王玢淳化侯 王瑈定原府院君 王鈞恭譲王
王瑤34
世子 王奭
瑞興君 王琠宝城君 王熙
以下多数省略
3人以下多数省略定陽君 王瑀
ほか子2人省略


注意事項及びその他事項[編集]

  • 出典は参考文献にある『元史』『高麗史』『高麗史節要』であるが、父母に関しては形式的な記載をした。
  • 太祖および恵宗、定宗等場合についても近親婚のために非常に複雑であり、図版にすべて記述することが困難なために割愛し、分割して記載した。
  • 系図上で父は形式上である。
  • 顕宗の妃神恵王后(第1妃)は三重大匡の天弓の娘。貞徳王后(第3妃)は同じ生家である。姉妹と類推されている。
  • 王后、妃、夫人に関しては高麗王后を参照されたい。
  • 高麗滅亡後は迫害を逃れて改姓したものが多いが、末裔は健在である。王秀英はその末裔とされている。

脚注[編集]

  1. ここで挙げる王とは王位についた者を意味し、時代によって異なるが冊封を受けた意味でなく記録上にある王名を挙げている。具体的には上記に追封と記述された王の場合には、単に追尊でなく、謀反による反逆、譲位の場合もあり、この場合は冊封された王ではないが王として挙げた。王名は廟号を用いる場合もあるが、ここでは諱で列記した。
  2. “김성회의 뿌리를 찾아서”. 世界日報. (2013年4月2日). オリジナル2016年3月4日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304201541/http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html 
  3. “신천강씨 信川康氏”. 韓国民族文化大百科事典. https://archive.ph/ANKd3 
  4. “강씨(康氏)의 본관”. rootsinfo. オリジナル2016年11月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161125064730/http://www.rootsinfo.co.kr/info/roots/view_bon.php?H=%CB%AC&S=%B0%AD 
  5. a b c d e 高雲基 2001, p. 86
  6. “韓国民族文化大百科事典 경강대왕”. 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0002284 
  7. “韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕”. 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0043394 
  8. 高雲基 2001, p. 86-87
  9. “王建의 후삼국통일 배후, 禪僧세력”. 東亜日報. オリジナル2008年12月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081202040918/http://www.donga.com/docs/magazine/new_donga/200112/nd2001120650.html 
  10. 宇山卓栄 『「民族」で読み解く世界史』 日本実業出版社2018年1月25日、72-73頁。ISBN 4534055587
  11. 宮脇淳子 『世界史のなかの蒙古襲来』 扶桑社扶桑社新書〉、2021年12月22日、57頁。ISBN 4594090435
  12. 八幡和郎 『誤解だらけの韓国史の真実』 イースト・プレス2015年4月10日、64頁。ISBN 978-4781650494
  13. 『韓国大河ドラマ公式ガイドブック 太祖王建』 インフォレスト〈INFOREST MOOK〉、2012年10月26日。ISBN 978-4861907425
  14. 元史、高麗史上の形式的な父を意味し、生物学的な父を意味していない。
  15. 元史に記載された元朝系だけを示す。
  16. 遼史 卷一至三十 本紀 第一至三十 高麗王顒長子 俁為 三韓國公
  17. 宣靖太后金氏
  18. 宗室2 襄陽公恕 神宗二子. 宣靖太后金氏生熙宗襄陽公恕. 襄陽公恕神宗三年封徳陽侯後封襄陽公.
  19. 恕子瑋㻂絪僖. 瑋守司空高宗三年卒
  20. 高麗史91卷 列傳4 襄陽公恕
    譜封福昌君諮封福原君恭讓四年六月流遠地. 琠封瑞興君忠烈朝以禿魯花在元. 王惟紹宋邦英 于王欲廢忠宣令琠継尚寶 實怜公主以爲後琠貌美王使之衣 服數往來以觀公主. 公主素不謹行遂屬意於琠. 及惟紹等伏誅忠宣欲宥琠丞相不可使刑部并斬於文明門外.
  21. 禑王は正当な王と認められていないので、王禑もその妃にも追封がない。したがって庶名になっている。
  22. 昌王は正当な王と認められていないので、王昌もその妃にも追封がない。したがってこのような名になっている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]