青函連絡船
青函連絡船(せいかんれんらくせん)とは、かつて青森県青森市の青森駅と北海道 函館市の函館駅の間を4時間から5時間で結んでいた日本国有鉄道および北海道旅客鉄道の青函航路 (鉄道連絡船)に使用されていた鉄道連絡船である。
概要[編集]
1891年に開設された青函航路 (鉄道連絡船)に使用された商船で、貨客船及び貨物船である。当初は青森駅側にも函館駅側にも接岸できる施設が無く、艀を使って乗り降りしていた。船だけでも旅客や貨物の輸送はできるが、鉄道の末端と連絡船を組み合わせたら船だけよりも速く輸送ができる。さらに、貨物を貨車に載せたまま連絡船に積み込む車両渡船を使うと、荷役に要する時間が短くなる。この船は1924年から運用を開始した。
構造[編集]
甲板には車両を引き込むための軌条が引かれた。この軌条は地上との車両引き渡しのための可動橋と連絡できるようになった。この車両甲板は船の排水量には含まれないので、排水量の割には船体が大きい。日中戦争から太平洋戦争にかけてはこの連絡船は北海道の石炭や生鮮食料品を本州に運ぶための重要な役割を果たした。青森から函館の距離は113kmあり、戦時中は非常に危険な航路で、戦争末期には連絡船は軍艦と同様な迷彩塗装を施し、単装25mm機関銃、連装13mm機関銃、爆雷投射口を設置した武装商船となった。
運用[編集]
就航当時は1日2往復体制で運行されていた。その後、飛躍的に輸送量を伸ばし、太平洋戦争中は内航海運に使用されていた船腹が南方への海上輸送に使われ、内航海運に使用される船腹が不足し、大量輸送のために船舶が粗製濫造された。これらはブロック工法をとられ、蒸気タービンも十分な出力を得られず、資材も粗悪なものが使用された。このうち、青函連絡船に使用されたのが戦時標準船W型である。この船は上述のとおり、戦時中は武装されたが、1945年7月15日にアメリカ海軍の艦載機TBMとSB2Cの通商破壊により多くの船が沈められて青函航路は運行停止となった。それでも生き残った船は1965年まで運用された。ちなみに、四国の紫雲丸事故までは旅客列車を船舶に積み込む輸送も実施された。
戦後、1947年に洞爺丸型船舶が4隻投入されたが、洞爺丸事故によって悪名も頂いた。
1964年から1965年にかけては、老朽船の淘汰と運航時間の短縮[注 1]を図って津軽丸型船舶が7隻投入された。
1960年代までは航空運賃が高額だったことから1968年10月1日改正(ヨンサントオ)には貨客船に限れば1日8往復体制となった。しかし、航空輸送の発達により減便が行われ、さらに青函トンネルの開業に備え、新造船の増備もされず、1988年3月13日、青函トンネルの開通に伴う航路休止で保有船舶はほどなく廃船、海外売却された。
関連項目[編集]
- 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
- 洞爺丸
- 金丸大作(元乗組員)
- 内航海運
- 青函航路 (鉄道連絡船)
- 戦時標準型青函連絡船
- 商法
- 船舶法
- 船
注[編集]
- ↑ 4時間30分から3時間50分に短縮。