諏訪高島城
諏訪高島城(すわたかしまじょう)とは、現在の長野県諏訪市高島1丁目20-1にかつて存在した日本の城である。単に高島城と言われる場合も多い。江戸時代に諏訪氏の居城、すなわち諏訪藩の藩庁として機能した。
概要[編集]
天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡した後、徳川家康は関東に移封となり、家康の家臣であった諏訪頼忠もそれに従って関東に移った。代わって諏訪には豊臣秀吉の家臣・日根野高吉が入り、文禄元年(1592年)から6年の歳月をかけて諏訪湖の東畔、すなわち当時はその場所にあった小島に築城を開始した。平山城だが、いわゆる水城でもあり、諏訪湖の波が城壁を洗って城郭のみが水面に浮き出たので「諏訪の浮城」と称された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで高吉は東軍に属するも、本戦直前に急死。子の日根野吉明が跡を継いで東軍に属したので、戦後は所領安堵された。ところが慶長6年(1601年)に吉明は家康によって下野国壬生藩に減封の上で移封となった。これは祖父の日根野弘就が西軍に属していたためとされている。
代わって諏訪頼水が2万7000石で入り、以後の高島城主はこの諏訪氏によって継承されてゆくことになる。なお、頼水は頼忠の息子である。
この城は記録で見る限りは本丸と2の丸、3の丸、衣渡の4つの曲輪から成っており、本丸の北西隅に3層の天守閣が置かれたが、その天守閣の屋根がこけら葺きという非常に珍しいものである。本丸には藩主の館、2の丸には藩校や貯蔵のための蔵、馬場、3の丸には勘定所、家老屋敷などが置かれていたと見られる。
江戸時代は諏訪氏が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。廃藩置県から4年を経た明治8年(1875年)に廃城とされて破却された。
昭和45年(1970年)に高さ12.54メートルの天守台上に建築面積381平方メートル、高さ20.2メートル、3層の天守閣が復元された。現在、天守閣の1階には郷土資料室が、2階には高島城資料室があり、3階には展望室があり、西に開ける諏訪湖を眺望することができる。また、天守閣の前方、すなわち旧本丸跡には日本式庭園が設けられており、藤や桜の名所となっている。
城は天守閣が復元されている以外は、本丸の石垣や内堀などが遺構として残されている。また、大手門前には築城当時に植えられていたとされるケヤキ並木がある。2の丸や3の丸などは現在、市街地になっている。