趙範
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趙 範(ちょう はん、生没年不詳)は、中国の後漢末期の政治家・武将。荊州桂陽郡の太守[1]。
生涯[編集]
劉備が荊州南部に侵攻してきた際に降伏した[1]。『趙雲別伝』によると趙範に代わって太守となった趙雲に兄嫁の未亡人で美人と評判の高い樊氏を娶るように勧めたが、趙雲は「趙範は切羽詰って降伏したに過ぎないから、心底はわからない。それに天下に女は大勢いる」と固辞した。後に趙範は逃亡した[1]。
『三国志演義』では趙雲と同郷の常山郡真定県の出身とされ、生年も趙雲が4ヶ月早い同年の生まれで降伏後は意気投合して義兄弟の契りを結ぶ。樊氏を勧める話で趙雲の怒りを買って殴られ、趙範は恨んで部下の鮑隆・陳応らを偽降させて殺害しようとするが、趙雲は見破って両者を血祭りに上げ、趙範を捕縛する。縁談については劉備も諸葛亮も賛成しているが、趙雲は辞退する。趙範は現職のまま劉備陣営に留まる。