藤原朝臣二川兵庫左衛門光綱

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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藤原朝臣二川兵庫左衛門光綱(ふじわらのあそんふたがわひょうござえもんみつつな)とは、MediaWiki界隈のユーザーである。北海道釧路市出身。但し、藤原自身は「『転勤族の息子』なので『市区町村の出身地が無い』」との立場を主張しており、釧路市はあくまで出生地ということらしい[1]香川県香川郡大野村字東原(現在の香川県高松市)にルーツを持つとの記述もある。

来歴[編集]

日本帝國電磁通信百科事典の創設者であり、エンペディアンでもある。2010年1月25日にMediaWikiに登場[1]、同年代初頭頃にさまざまなMediaWikiサイトで活動していた。旧エンペディアでも「藤原朝臣二川藤太郎光綱」の名義で活動していた[2]

2010年7月25日頃に、活動拠点のひとつであったユアペディアがアクセス不能となった。そのため同8月5日、藤原が日本帝國電磁通信百科事典を作成。内部サーバーエラーに見舞われるも翌日には復旧され[1]、以降一国一城の主となった。しかし、2012年3月31日午前2時10分頃にアクセス規制・実質閉鎖状態に陥る。藤原曰く「『当時の最新版のメディアウィキ』を『インストール』したら、日本帝國電磁通信百科事典に付いて、『ソフトウェアのバグが発生した状態』に成」ったという[1]

2013年6月11日に、ウィキコレクトで日本帝國電磁通信百科事典について編集した[3]のを最後に活動が途絶える。この間、北海道の厳冬に嫌気がさして広島県に移住するが、同時にMediaWikiで使用していたパスワードを忘れ、Yahoo! JapanIDも長期未使用につき利用停止措置を受けた[1]。その後『神奈川繹郎左衛門高知』(現名義は『神奈川闍鬼男左衛門高知』)の名義でインターネット上での活動を行っており[1]2022年にはYouTube顔出しを解禁[4]

2023年10月28日、突如として「藤原朝臣二川兵庫左衛門光綱」名義でエンペディアに復活[5]し、MediaWikiサイト古参ユーザー一同に驚愕を与えた。エンペディアの日本史記事に興味関心を抱いたとのこと[1]。しかしながら、諸般の事情によって(詳細は#Enpediaにおける活動を参照)、コミュニティになじむことが出来ず、1月6日に撤退しエダペディアへ引っ越したようだ[6]。その後はEdapediaを中心に活動している。FreepediaユーモアペディアマイペディアYsmwikiなどでも活動している[7][8] [9][10]。なおエダペディアにて彼が執筆した記事は、えだ蔵によって「読みにくい記事」として一括削除された。

活動の特徴、主義・信条[編集]

  • 旧字体と新字体が混合し、名詞などを鉤括弧で囲んだ独特な文体を使用している。(Special:固定リンク/860927User talk:藤原朝臣二川兵庫左衛門光綱を参照。)
  • 自身のプロフィールを[1]など各所に集約して掲載している。
  • 藤原は、後光厳天皇の時代に南朝に寝返った細川清氏を討伐した手柄に拠り、三河国渥美郡二川郷から讃岐国香川郡龍満城に移住して、讃岐龍満氏(後に讃岐二川氏)に成った家系の者を自称しており、北朝正統派であるため、光厳天皇(北朝初代天皇)を『日本帝國皇帝陛下樣』と認定する一方で、南朝や後醍醐天皇を逆賊暴君認定していた[1]
  • 関連項目を関係事項と書くことが多い。
  • 書き言葉はかなり独特だが、それと比較すると話し言葉は案外普通である[4]
  • 自らの政治信条について「封建民主主義者」であるとしている。小学校時代に受けた日章旗君が代についての教育が影響したもの[1]
  • 好みの女性のタイプは竹俣紅伊達さゆり菊地姫奈 [1]

Enpediaにおける活動[編集]

エンペディアでは日本史関係の記事を立項し、その記事においても独特な文体を使用していることがある。[11]記事を書く際に、旧字体と新字体を混合させていることが多い。[12]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]