華歆
華 歆(か きん、157年 - 231年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の政治家。字は子魚(しぎょ)[1][2]。子は華表・華博・華周。弟は華緝。孫は華廙・華澹・華嶠。曾孫は華軼。側室に駱統の生母。
生涯[編集]
青州平原郡高唐県(山東省禹城市)の出身[1]。最初は孝廉に推挙されて郎中になるが、病気を理由に辞職する[1]。189年に霊帝が崩御すると、鄭泰や荀攸らと共に何進に招聘されて尚書郎に任命される[1]。何進没後は董卓、袁術、馬日磾と主君を変えてゆき、豫章郡太守の時に孫策に帰順する[1]。孫策からは賓客の礼を持って厚遇された[2]。
200年に孫策が死去すると孫権に仕えるが、曹操の推挙により献帝の招聘を受けた[1]。孫権は手放すことを渋っていたが、華歆は曹操との橋渡し役になることを説いたので送り出され、この時に1000人以上の見送りを受けて数百金の選別を受けて、華歆は選別を受け取りはしたが間もなく全てを返還し、気持ちだけを受け取ったので誰もがその徳義に感服したという[1]。
曹操の下では議郎に任命され、司空の軍事に参与する。後に荀彧に代わって尚書令に任命される[1]。魏が藩国として成立すると御史大夫に任命される[1]。220年に後漢が滅亡して魏が建国されると、文帝より司徒に任命される[1]。226年に文帝が崩御して明帝が即位すると、太尉に任命されて博平侯に封じられた[1][2]。
華歆は清貧に甘んじて俸禄と下賜品は親戚や旧知に与えたので家には蓄えは無く、下賜された女奴隷も全員解放して嫁入りさせたという[1]。死去するまで魏の元老としての地位にあり[2]、231年に死去。享年75。死後に敬侯と諡号を贈られた[2]。
酒豪であり、1石以上飲んでも乱れることが無く、常に威儀を正していたので「華独坐」と呼ばれたという[2]。
『三国志演義』では史実と異なって出世のために何でもする貪欲で卑劣な人物として描かれている[1]。伏皇后の曹操に対するクーデターが発覚した際には隠れていた皇后の髪をつかんで引きずり出して捕らえ、献帝の命乞いも恫喝して抑えた[1]。曹丕が王位に即位すると弟の曹熊を自殺に追い込み、曹植を失脚させるのに一役買っている[1]。さらに曹丕が皇帝に即位するために献帝を脅迫して禅譲の詔を書かせて受禅台を築かせている[1]。曹叡の時代に馬謖の離間の計略で司馬懿が疑われた際、司馬懿を殺害するように曹叡に進めるなど、史実と大きく異なる野心家として描かれている[1]。
ただし全くの誤りとは言えない。『曹瞞伝』では曹操の命令で伏寿を捕縛する役目を務めており、必ずしも清廉だったのかには疑問の余地もある。