駱統
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駱 統(らく とう、193年 - 228年)は、中国の三国時代の呉の武将。字は公緒(こうしょ)[1]。父は駱俊。子は駱秀。妻は孫権の従兄・孫輔の娘。
生涯[編集]
揚州会稽郡鳥傷県の出身[1]。孫権が会稽郡の太守の時に鳥程相に任命され、ここで治績を挙げて功曹に任命され、後に騎都尉に任命され、さらに孫氏一族の娘を妻に迎える事を許された[1]。222年には夷陵の戦いに参加し、大いに武功を立てた[1]。同年に魏の文帝が呉に侵攻して来た際も撃退に貢献した[1]。これにより新陽亭侯に封じられ、濡須の督にまで任命されて魏軍と対峙した[1]。228年に死去[1]。享年36。
『三国志演義』では第38回で孫権の部下として加わった人材の一人として登場する[1]。第43回の赤壁の戦いの時に張温と共に諸葛亮に論戦を挑もうとするが、黄蓋に止められている[1]。