足利義昭
足利 義昭 あしかが よしあき | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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足利 義昭(あしかが よしあき、天文6年11月13日(1537年12月15日)- 慶長2年8月28日(1597年10月9日)は、室町幕府の15代将軍及び鞆幕府将軍。室町幕府の事実上、最後の将軍となった。
生涯[編集]
1537年、京都にて出生。兄は13代将軍足利義輝。1542年に出家し、僧侶となる。
僧侶から将軍へ[編集]
しかし出家当時から戦国大名と守護大名との衝突が激しく、特に武田信玄と上杉謙信との衝突が激しかった。1562年、三好三人衆が兄・義輝を暗殺。まだ悲劇は終わらず、義昭の母や弟も暗殺された。義昭が将軍になると思われたが、松永久秀により義昭が幽閉された為室町幕府は無政府状態となり、三好政権が発足。しかし1ヶ月も経たないうちに幽閉が解かれ(参考として黒田官兵衛は1年以上)、ついに1567年将軍に就任した。義昭の守護であった織田信長は、義昭の上洛を最も支え[注 1]、更に戦いで優秀な成績を残し室町幕府を守ったことにより堺と近江国の一部を与えられた。
信長包囲網の造築と壊滅[編集]
しかし信長と義昭の関係は信長がやりたい放題するのと比例するように義昭の不信感は増していき、義昭は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、比叡山延暦寺らと協力し、信長と衝突した。この守護大名勢力全体を信長包囲網という。しかし浅井長政は小谷城で切腹、義景は一乗谷で切腹、石山本願寺は戦死、延暦寺勢力は全滅した。信長包囲網は壊滅、7年でその幕を閉じた。
槙島城の戦い[編集]
信長はその後義昭を裏切り、京都に迫った。そして槙島城の戦いで足利義昭第15代将軍を追放した。槙島城で徹底抗戦を宣言した義昭であったが、その末に義昭は降伏。事実上の安土桃山時代の始まりであり、室町幕府の滅亡である。
亡命政府樹立[編集]
義昭は各地を転々として、毛利輝元の元についた。義昭は輝元の援助で鞆幕府と呼ばれる亡命政府を樹立し、室町幕府を何とか受け継いだ。 豊臣秀吉と徳川家康、柴田勝家は義昭の上洛[注 2]を支援したが、勝家が死去し、家康も多忙の為頼りにはならなかった。そこで秀吉に頼ると上洛を許可されたのである。なお、秀吉は自分が猶子になることを望んだが、叶わなかった。
その後[編集]
上洛してすぐに将軍職を辞任。ここで完全に室町幕府は滅亡。義昭は槙島1万石の大名となった後、再び僧侶となり死去。死去後は足利義尋が僧侶を受け継ぐが、現在の足利氏(義昭流)の後裔は不明である。