六全協

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六全協(ろくぜんきょう)とは、1955年7月2729日に開かれた日本共産党第6回全国協議会の略称。

概要[編集]

日本共産党は、1950年以来の党の分裂(いわゆる五〇年問題)、1951年10月の第5回全国協議会(五全協)で採択した「五一年綱領」と「軍事方針」に基づく武装闘争路線で壊滅状態となった党を再建するため、1955年7月に所感派国際派の合同で第6回全国協議会(六全協)を開催した。「六全協決定」で、「党は戦術上でいくつかの大きな誤りをおかした。……誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」と武装闘争路線を自己批判し、その後の合法路線・議会主義路線への転換点となった。一方で、「新しい綱領が採用されてから後に起こったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している」と五一年綱領を評価し、引き続き綱領として堅持するとした。自己批判と方針転換に伴い反主流派であった国際派の復党が無条件に認められ、50年以来の分裂から正式に党の統一を回復した。この会議で徳田球一書記長が1953年10月に北京で死去していたことが公表され、トップの第一書記に野坂参三、常任幹部会員に野坂、志賀義雄宮本顕治袴田里見志田重男紺野与次郎西沢隆二の7人が選出された(旧国際派は志賀・宮本・袴田)。また1953年9月に公表された伊藤律の除名が再確認された。六全協後に志田重男が失脚、1958年7月の第7回党大会で「その後の党活動によって、五一年綱領にあやまりのあることが明らかとなった」として五一年綱領が正式に廃止され、野坂参三が議長、宮本顕治が書記長に選出、「宮本体制」成立への歩みが始まった。一方で、特に山村工作隊など武装闘争の中心に立っていた学生党員の間には「六全協ショック」「六全協ノイローゼ」「六全協ボケ」と呼ばれる虚脱感、指導部に対する不信感が広まり、離党者や自殺者も出た。同時期のスターリン批判ハンガリー事件とともに、日本トロツキスト連盟日本革命的共産主義者同盟)や共産主義者同盟(ブント)といった新左翼の誕生に影響を与えた。

関連文献[編集]

  • 柴田翔『されど われらが日々――』文藝春秋、1964年/文春文庫、1974年
  • 島成郎『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』批評社、1999年/島ひろ子共著、新装増補改訂版、2010年

五〇年問題#関連文献」も参照

関連項目[編集]