小山田昌貞
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小山田 昌貞(おやまだ まささだ、? - 天正10年3月2日[1](1582年3月25日))は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。通称は大学助(だいがくのすけ)[1]。
生涯[編集]
父は小山田虎満[1]。兄に昌成[1]。名は昌貞と伝わるが『甲斐国志』しか記録が無く一次史料では確認できない[1]。
永禄12年(1569年)に武田信玄の小田原攻めで35騎を率いて武田信玄の旗本に編成されている(『甲陽軍鑑』)。このため父や兄に属していたのではなく独立した扱いを受けた武田家の家臣と見られる[1]。天正5年(1577年)閏7月に昌貞の同心が喧嘩を起こして蟄居処分にされている[1]。天正7年(1579年)8月12日に家臣10人の普請役を免除されているため、父や兄の存在を考えても昌貞の権力が武田家でかなり及んでいた可能性もある[1]。駒井昌直や駒井宮内大輔と共に居城の法度を申し付けられ、深沢城に入って後北条氏の対応を務めた[1]。
後に兄の昌成と共に仁科盛信が守備する信濃高遠城に入り、織田信長の武田征伐で信長の嫡子・信忠が攻めてきた際に奮戦したものの戦死した(『信長公記』『甲乱記』)。法名は格翁道外禅定門[1]。