寺沢堅高

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寺沢 堅高(てらざわ かたたか、慶長14年(1609年) - 正保4年11月18日1647年12月14日))は、江戸時代前期の大名肥前国唐津藩寺沢家(12万3000石、のち8万3000石)の第2代藩主官位従五位下兵庫頭。島原の乱を発生させる原因を作った大名の一人で、戦後罪に問われて減封、後に自殺した。

生涯[編集]

初代藩主・寺沢広高の次男。幼名は晴丸。元和8年(1622年)に兄の忠晴が早世したので嫡男となり、従五位下兵庫頭に叙任される。

Wikipediaでは寛永10年(1633年)に広高の死去により藩主になったと出鱈目が書かれているが、実際には寛永4年(1627年)12月の広高の隠居により家督を相続し、第2代藩主となっている。ただし、19歳の若さであったため、藩政は隠居した父と、家老熊沢三郎右衛門が補佐している。

堅高は郷村支配において領内に10村前後ずつの組を作って惣庄屋(大庄屋)を設置して支配させ、農作業の進捗や年貢の納入などの責任を負わせ、農村内での商業活動は菓子などをはじめ厳禁とする厳しい政策を採用している。さらに江戸幕府によってキリシタンの弾圧が強められると、領国の天草にキリシタンが多く居住していたことから、自らキリシタンの弾圧に乗り出した。さらに年貢においてももともと生産性が低い天草で無茶な徴収を繰り返してしまい、前述のキリシタン弾圧や郷村支配の反発もあり、また島原藩松倉勝家の圧政もあって、遂に島原の乱を引き起こすことになった。

寛永14年(1637年)10月、城代の三宅藤兵衛は島原の乱の鎮圧に乗り出したが、天草時貞ら率いる一揆軍の反撃を受けて戦死した。これにより江戸参勤していた堅高は急いで唐津に帰国すると、1500人の兵力を増派して鎮圧に乗り出すも、一揆勢力は既に1万2000人以上に膨れ上がっており焼け石に水であった。しかも12月になると天草と島原の一揆勢力が合流して兵力をさらに増大させ、もはや唐津藩や島原藩での鎮圧は不可能に近い状態で、幕府軍が鎮圧に乗り出すことになった。結果的に唐津藩では島原の乱で23名の戦死、315名の負傷者を出した。

戦後、江戸幕府の命令で松倉勝家は斬首され、堅高は所領没収で改易、さらに蟄居を命じられた。しかし幕府の恩情により、やがて天草領4万石を除く旧領8万3000石を与えられて大名として復帰した。ただし、参勤交代や幕府の手伝い普請などをさらに厳しくされるというペナルティ付きでの復帰であった。天草領4万石を失ったため、家臣団の維持も困難になって藩財政は火の車となる。しかし、幕府はさらにかつての旧罪の追及を緩めず、さらに長崎警備の見廻り役を堅高に課した。

このように幕府から厳しい処置を受けて次第に精神的な心労が重なり、正保4年(1647年)11月18日に遂に江戸自殺した。38歳没。

堅高には子女が無かったので、唐津藩寺沢家は無嗣断絶で改易となった。その後、唐津藩領は1年間ほど、天領として組み込まれた。

墓所は佐賀県唐津市西寺町の近松寺。

系譜[編集]

関連作品[編集]

テレビドラマ[編集]