大原高保
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大原 高保(おおはら たかやす、? - 天文17年(1548年)?)とは、日本の戦国時代の武将。六角氏の一族で家臣。
生涯[編集]
六角高頼の3男で六角氏綱と定頼の実弟。最初は次郎高盛と称して六角氏の一族である大原氏の家督を相続し、大原政重の養子となる。室町幕府の奉公衆として幕府に仕えた。官途は中務大輔。
永正17年(1520年)5月に細川高国が上洛した際に協力した。残されている記録や文書からは行政官僚としての働きが目立つ。名を高盛から高保に変えた明確な時期は不明であるが、文書上からは大永8年(1528年)7月に高保になっているため、これ以前であることは明らかである。なお、養父の政重の息子の大原五郎が大永5年(1525年)の六角定頼の浅井亮政攻めに参戦していることから、大永5年から大永8年までの3年間の間に大原氏を継承して名を改名したのではないかと見られている。
天文11年(1542年)3月に室町幕府第12代征夷大将軍・足利義晴とその長男の足利義輝が近江から帰洛する際には、朽木稙綱と共に義晴に供奉した(『親俊日記』)。天文14年(1545年)2月に鯛などを幕府に献上している(『大館日記』)。天文15年(1546年)12月に六角定頼が足利義輝の元服加冠役を務めた際には甘杯役を務めた(『光源院殿御元服記』)。
なお、天文7年(1538年)から天文17年(1548年)まで石山本願寺に対して毎年のように年始などに欠かさず贈物をしていることが『天文日記』から確認できるが、天文17年を最後に贈物が途絶えているため、この年が没年と考えられている。
子が無かったため、定頼の長男・六角義賢(高保の甥)の3男である六角義定の息子である大原高賢が後に高保の家系を継承している。