栗原信友
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栗原 信友(くりはら のぶとも、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。栗原 兵庫(くりはら ひょうご)は同一人物か彼の息子とされるが詳細は不明。そのため信友と兵庫の両方の生涯について説明する。
生涯[編集]
信友は栗原昌種の子で、父は勝山合戦で戦死した[1]。栗原家は東郡(現在の甲府盆地東部一帯)を支配していた甲斐武田氏の庶流である有力国人で、信友も永正17年(1520年)に今井信是や大井信達と手を組んで武田信虎に対して反乱を起こしている(都塚・今諏訪合戦)[1]。しかし信虎に大敗し、居館を包囲されたため武蔵秩父に逃亡した[1]。後に信虎に謝罪懇請して許されて帰国している[1]。ここまでは信友の経歴である。
この反乱から11年後の享禄4年(1531年)に飯富虎昌や今井信元らにより再び信虎に対する反乱が起こされているが、その際に栗原兵庫という人物も反乱軍に加わっているのが確認されている[1]。しかしこの反乱も信虎の前に鎮圧され、兵庫は河原辺合戦で敗死した[1]。