富田城の戦い

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富田城の戦い(とみたじょうのたたかい)とは、永正12年(1515年)10月から永正14年(1517年)にかけて行なわれた武田信虎軍と今川氏親大井信達連合軍の合戦である。当初は連合軍が優勢であったが、合戦の長期化で次第に連合軍が不利になり、信虎優勢の下に和睦が成立した。この際に信虎は後に武田信玄を産むことになる大井夫人正室に迎えている。戦場は現在の山梨県南アルプス市戸田。

経歴[編集]

永正12年(1515年)、駿河守護・今川氏親の支援を得た甲斐西郡(甲府盆地西部一帯)の大井信達が武田信虎に対して反乱を起こした。信虎は妹婿・小山田信有の助力を得て大井氏の本拠である現在の南アルプス市にある富田城を攻めた。しかし信虎軍はこの地域の地理に暗く、富田城の周辺は深田であったことを知らずに騎馬で攻め込んで足を取られて動けなくなったところを大井軍に反撃されて大敗し、小山田大和守飯富道悦飯富源四郎山県昌景とは別人)、板垣伯耆守、於曽殿ら大将20騎、兵士200名と一族家臣の多くが戦死した(『勝山記』『一蓮寺過去帳』)。この大敗で、今川氏親は今川軍を河内の穴山氏の領土を経由した上で大井氏の援軍として派遣し、さらに甲斐と駿河の国境を封鎖した。

永正13年(1516年)9月28日、万力で信虎は今川・大井連合軍と戦って敗れ、恵林寺に逃亡した。今川軍は勝利に勢いづいて大井氏と連携して各地を放火して回った(『王代記』『高白斎記』)。12月、小山田信有ら郡内衆が山中・河口・吉田に展開する今川軍と交戦するが、西海右近兄弟や大石与五郎らが戦死して敗北した。武田軍不利のため、甲斐の民衆は河口湖に浮かぶ小島に避難した(『勝山記』)。

永正14年(1517年)1月1日、小山田信有の家臣・小林宮内丞が新倉(現在の富士吉田市)に出陣し、1月2日より今川軍に対する攻撃を開始した。1月12日、小林は吉田城に籠城していた今川軍に勝利して同城を奪取し、吉田方面から今川軍は和睦して手を引いた[1][2]

この頃、合戦の長期化で今川氏親も武田信虎との和睦を模索しだした[2]。というのは遠江方面においてかつて氏親が追い出したこの国の前守護・斯波義達の支援を得て大河内貞綱が今川家の遠江支配の拠点である引間城を奪取していたからである[2]。また、合戦の長期化のためもあり今川に属していた甲斐の国人衆が非協力的になり出したため、氏親は連歌師の宗長を甲斐に派遣して信虎と和睦交渉を開始し、3月2日に和睦が成立して今川軍は甲斐を退去した[2]。この和睦は永正15年(1518年)に正式に成立した[2]

今川軍の撤退で恵林寺に逃亡して滅亡寸前に追い詰められていた信虎は息を吹き返し、孤立した大井信達を攻めて降伏させた[2]。この際に信虎の正室として信達の娘の大井夫人が差し出されて婚姻した[2]

脚注[編集]

  1. 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.59
  2. a b c d e f g 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.60

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6