北条公時

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが北条公時の項目をおカタく解説しています。

北条 公時(ほうじょう きみとき、嘉禎元年(1235年) - 永仁3年12月28日1296年2月10日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府評定衆引付衆名越 公時(なごえ きみとき)とも言われる。名越流北条氏の第3代当主・北条時章の次男。名越流北条氏の第4代当主。

生涯[編集]

家督相続[編集]

第2代執権・北条義時曾孫。祖父は北条朝時。父は北条時章で次男。母は二階堂行有の娘。弟に頼章篤時時通時賢らがいる。子に時家公貞時綱らがいる。妻は連署北条重時の娘。通称は尾張次郎、尾張左近大夫将監・尾張守。

吾妻鏡』では尾張次郎の通称で記録されており、次郎の通称から次男であると推測されている。『吾妻鏡』においての初見は宝治2年(1248年4月20日条で、100番射手として記録されている。建長2年(1250年5月10日の馬場殿での笠懸、同年8月18日犬追物の射手に選抜された。弘長3年(1263年1月10日には鞠奉行に任命された。同年11月22日に第5代執権北条時頼が死去したことにより父の時章が出家したため、公時が名越北条氏の家督を継承し、同時に越後越中大隅の3カ国の守護職も継承した[1]

その後は第6代執権・北条長時、第7代執権・北条政村、第8代執権・北条時宗の下で幕府の養殖を歴任する。しかし父親と同じように執権勢力と協調しながらも、征夷大将軍藤原頼嗣とも親しい立場を築くなど、執権勢力と将軍勢力とうまく渡り合っていた[1]

二月騒動とその後[編集]

文永9年(1272年2月11日、北条時宗配下の御内人により、父の時章と叔父の教時が殺害される二月騒動が発生する[1]。騒動後、時章の殺害は誤りで冤罪とされたため、時章を殺害した御内人である大蔵頼季ら5名が殺害され[1]、公時ら時章の一族は連座を免れている。また、公時の所領安堵された[2]

文永10年(1273年6月21日評定衆に任命され、その後も引付頭人など要職を歴任する。弘安7年(1284年4月4日、時宗が死去すると出家して道鑑と号した。時宗の子で第9代執権となった貞時の下でも要職を歴任し、永仁3年(1295年)12月28日に死去した。享年61。ただし永仁2年(1294年)に死去の説もある[3]

北条公時が登場する関連作品[編集]

テレビアニメ
漫画

脚注[編集]

  1. a b c d 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、157頁
  2. 川添昭二、『北条時宗』(吉川弘文館。人物叢書、2001年)、111頁
  3. 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、158頁

参考文献[編集]