北条公時
北条 公時(ほうじょう きみとき、嘉禎元年(1235年) - 永仁3年12月28日(1296年2月10日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の評定衆・引付衆。名越 公時(なごえ きみとき)とも言われる。名越流北条氏の第3代当主・北条時章の次男。名越流北条氏の第4代当主。
生涯[編集]
家督相続[編集]
第2代執権・北条義時の曾孫。祖父は北条朝時。父は北条時章で次男。母は二階堂行有の娘。弟に頼章、篤時、時通、時賢らがいる。子に時家、公貞、時綱らがいる。妻は連署の北条重時の娘。通称は尾張次郎、尾張左近大夫将監・尾張守。
『吾妻鏡』では尾張次郎の通称で記録されており、次郎の通称から次男であると推測されている。『吾妻鏡』においての初見は宝治2年(1248年)4月20日条で、100番射手として記録されている。建長2年(1250年)5月10日の馬場殿での笠懸、同年8月18日の犬追物の射手に選抜された。弘長3年(1263年)1月10日には鞠奉行に任命された。同年11月22日に第5代執権・北条時頼が死去したことにより父の時章が出家したため、公時が名越北条氏の家督を継承し、同時に越後・越中・大隅の3カ国の守護職も継承した[1]。
その後は第6代執権・北条長時、第7代執権・北条政村、第8代執権・北条時宗の下で幕府の養殖を歴任する。しかし父親と同じように執権勢力と協調しながらも、征夷大将軍の藤原頼嗣とも親しい立場を築くなど、執権勢力と将軍勢力とうまく渡り合っていた[1]。
二月騒動とその後[編集]
文永9年(1272年)2月11日、北条時宗配下の御内人により、父の時章と叔父の教時が殺害される二月騒動が発生する[1]。騒動後、時章の殺害は誤りで冤罪とされたため、時章を殺害した御内人である大蔵頼季ら5名が殺害され[1]、公時ら時章の一族は連座を免れている。また、公時の所領は安堵された[2]。
文永10年(1273年)6月21日、評定衆に任命され、その後も引付頭人など要職を歴任する。弘安7年(1284年)4月4日、時宗が死去すると出家して道鑑と号した。時宗の子で第9代執権となった貞時の下でも要職を歴任し、永仁3年(1295年)12月28日に死去した。享年61。ただし永仁2年(1294年)に死去の説もある[3]。
北条公時が登場する関連作品[編集]
- 『アンゴルモア 元寇合戦記』(2018年、声:杉崎亮)
- 『アンゴルモア 元寇合戦記』(ComicWalker - 角川書店)