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倭の五王(倭の五王)とは、中国の六朝時代の史書に記された倭国の讃[読 1]、珍[読 2]、済[読 3]、興[読 4]、武[読 5]の5人の王をさす。
概要[編集]
中国の史書にある讃、珍、済、興、武の5人の王が日本国の天皇(大王)の誰に該当するのかは諸説ある。安本美典著「倭の五王の謎」の27頁に27頁一覧表にまとめられているので以下に引用する[1]。
A説を支持する学者[編集]
B説を支持する学者[編集]
C説を支持する学者[編集]
D説を支持する学者[編集]
E説を支持する学者[編集]
倭の五王時代の歴史[編集]
中国・韓国・日本の史書による記録[編集]
413年 - 『高句麗、倭国が東晋に入貢(本紀[注 1])』[引用 15]
413年 - 『義照9年 倭国宝物を献ず(晉書安帝紀)』[引用 16]
416年 - 『百済年号(腆支)宗年号(義照12年) 百済王餘映[読 6]を鎮東大将軍百済王にする(百済国伝)』[引用 17]
420年 - 『百済年号(腆支)宗年号(永初1年) 百済王餘映を鎮東将軍百済王から鎮東大将軍に進める(百済国伝)』[引用 18]
421年 - 『倭讚、宗に入貢→除受有り(列伝[注 2])』[引用 19]
421年 - 『永初2年 倭讚に除授(宋書倭国伝)』[引用 20]
424年 - 『百済年号(久爾辛)宗年号(景平2年) 映、使いを出して貢献(百済国伝)』[引用 21]
424年 - 『百済年号(久爾辛)宗年号(元嘉2年) 鎮東大将軍百済王はなかなか熱心で気にいる。其後毎年方ものを献ずるようになった(百済国伝)』[引用 22]
425年 - 『倭王讚、司馬送達を遣わし、宗に入貢(列伝)』[引用 23]
425年 - 『元嘉2年 讚又、使いを遣し方物を献ず。(宋書文帝紀)』[引用 24]
年不明 - 『讚死して弟珍立つ。(宋書倭国伝)』[引用 25]
430年 - 『百済年号(毗有[読 7])宗年号(元嘉7年) 余毗また貢職をおさめたので映が持っていた爵をそのまま毗にさずけた(百済国伝)』[引用 27]
436年6月 - 木梨軽皇子と軽大姫皇女の密通が発覚する[2]。
438年4月 - 『倭国珍、宗に入貢。自称「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」→除正「安東大将軍倭国王」。倭隋ら13人の平西・征虜・冠軍・輔国将軍の除正を求める(列伝)』[引用 28]
438年 - 『元嘉15年 倭国王珍を安東将軍となす(宋書文帝紀)』[引用 29]
440年 - 『百済年号(毗有)宗年号(元嘉17年) 百済国、使いを出して献物。(宋書文帝紀)』[引用 30]
443年 - 『元嘉20年 倭国王済復た以て安東将軍・倭国王となす(宋書倭国伝)』[引用 31]
443年 - 『倭王済、宗に入貢→除正「安東将軍倭国王」(本紀・列伝)』[引用 32]
450年 - 『百済年号(毗有)宗年号(元嘉27年) 毗、浄書して方物を献じ易林敷占・腰弩を求め許される。(百済国伝)』[引用 33]
451年 - 『倭国済、宗に入貢→加除「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」。二三人の軍・郡(将軍号と郡太守号)を除正(列伝)』[引用 34]
451年 - 『元嘉28年 倭国王済を安東将軍から安東大将軍に進める(宋書文帝紀)』[引用 35]
451年 - 『元嘉28年 (倭王)に使物節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え安東将軍は故の如し(宋書倭国伝)』[引用 36]
年不明 - 『済死す。世子興、使いを使わして貢献(宋書倭国伝)』[引用 37]
456年 - 市辺押磐皇子が雄略天皇によって惨殺される[3]。
457年 - 『百済年号(蓋鹵[読 8])宗年号(大明1年) 慶を任官。(百済国伝)』[引用 42]
458年 - 『百済年号(蓋鹵)宗年号(大明2年) 慶、上表し臣下の任官を依頼し許される。(百済国伝)』[引用 43]
460年 - 『大明4年 倭国使を遣わして貢献(宋書孝武帝紀)』[引用 44]
462年3月 - 『倭王世子興、宗に入貢(本紀)→除正「安東将軍倭国王」(本紀・列伝)』[引用 45]
462年 - 『大明6年 倭王世子興を安東将軍・倭国王とする(宋書倭国伝)』[引用 46]
年不明 - 『興死んで弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す(宋書倭国伝)』[引用 47]
467年 - 『百済年号(蓋鹵)宗年号(泰始3年) 百済王、使いを出して方物を献げる。(宋書明帝紀)』[引用 48]
471年 - 『百済年号(蓋鹵)宗年号(泰始7年) 百済王、又使いを出して献ずる。(百済国伝)』[引用 49]
477年11月 - 『倭国、宗に入貢(本紀)』[引用 50]
477年 - 『昇明1年 倭国使を遣し献物(宋書順帝紀)』[引用 51]
478年5月 - 『倭王武、宗に入貢し上表。自称「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王」、竊自仮開府儀同三司、其余威仮授」→除正「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」(本紀・列伝)』[引用 52]
478年 - 『倭国王武を安東大将軍となす(宋書順帝紀)』 『上表文を出す。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に除す(宋書倭国伝)』[引用 53]
479年 - 『南斉、倭王武を鎮東大将軍に進号(列伝)』[引用 54]
479年 - 『』
502年4月 - 『梁、高句麗王高雲[読 9]を車騎大将軍、百済王余大[読 10]を征東大将軍、倭王武を征東将軍に進号(本紀)』[引用 63]
系譜[編集]
宋書「倭国伝」による倭国大王の系譜[編集]
梁書「倭伝」による系譜[編集]
記紀による系譜[編集]
A説[編集]
最もオーソドックスな解釈で、支持する学者も多い。梁書と宋書のどちらの信憑性が高いかがキーポイントになる。梁書は7世紀に書かれた史書であり宋書は倭の五王とほぼ同時代に書かれた史書である[5]。ゆえに、宋書のほうが信頼性が高いという前提条件がある。また、記事の量だけを比較すると南書が宋書の次に多く、しかも、倭の五王を取り扱った中国の史書中最も後世に書かれたものである。ただし、南書の記述は宋書と梁書の記事のダイジェスト版であり新事実の記載が無い[6]。
確かに一読すると正しい理屈ではあるが、同時代がゆえに遠慮して書けなかった部分が宋書にある可能性は捨てきれない(独自研究)。もちろん、梁書についても同様に過去のことゆえ捏造し現政権に都合良く書き換えられている可能性も否定出来ない(独自研究)。また、南書が宋書と梁書の記載を両論併記のコピー&ペースとしたダイジェスト版であるとするなら、どちらが信頼性が高いかという議論は振り出しに戻す事も可能である(独自研究)。
松下見林によると、一番目の讃は履中天皇の和諱『大兄去来穂別尊[読 11][7]』を略したものであり「去」の読みと(正しくは「ざ」である)讃の読みが似ていることから讃=履中天皇としている[8]。二番目の珍は履中天皇の同母弟である、反正天皇の和諱『多遅比瑞歯別尊[読 12][7]』の「瑞」の字と「珍」の字が似ていて、「瑞」がなまって「珍」となったとしている[8]。三番目の済は履中天皇と反正天皇の弟にあたる、允恭天皇『雄朝津間雅子宿禰尊[読 13][9]』の字の形が似ている「津」がなまって「済」となったとしている[8]。四番目の興は安康天皇をさす。安康天皇は允恭天皇の第二王子で、雄略天皇の同母兄[9]。和諱は『穴穂命[読 14][9]』この名がなまって「興」となったとされている[8]。五番目の武は允恭天皇の第五皇子であり安康天皇の同母弟の雄略天皇をさす。和諱『大泊瀬幼武尊[読 15][9]』この名前を略して武としたとされている[8]。
B説[編集]
古事記の没年干支[注 3]はある程度信頼出来るという仮定に基づいている。この仮定に基づくと讃の活躍時期は仁徳天皇の活動時期とほぼ一致する。済、興、武の系譜関係は、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇の系譜と一致する[10]。この説の問題点は当然ながら、古事記の没年干支を60年単位の誤差を含めて信じて良いのかと言うことがまず第一にあげられる[10]。とは言え、それを言い出したら日本書紀、古事記だけで無く、梁書や宋書の年代表記も疑わざるを得なくなる(独自研究)。
また、B説に従い古事記の没年干支に当てはめると反正天皇は437年に没したことになるが、反正天皇に当てはめられている珍は438年に安東将軍に任じられている。しかも、『倭王珍は438年に宗に使いを使わしているらしい』[引用 65]。ただ、5世紀の情報伝達速度を考えると珍が437年に反正天皇の子を知っていたかには疑問が残る(独自研究)。逆に、知っていながら遺徳を褒め称える意味で安東将軍に任じられた可能性もある(少々無理気味な独自研究)。ただ、安本をしても『らしい』と表現している事から考えると没年と安東将軍任命年については再考の余地がある(独自研究)。
また、讃と珍は兄弟であるという宋書、梁書、南史に記載されている系譜を無視することになってしまう事になり、B説では系譜との関係が明確に説明出来ていない[10]。
C説[編集]
C説の問題点はB説に準ずる。興が安康天皇ではなくて市辺押磐皇子である点を除いて他はB説に同じで、讃と珍は兄弟であるという宋書、梁書、南史に記載されている系譜を無視することになってしまう事になり、C説でも系譜との関係が明確に説明出来ていない[10]。安康天皇は市辺押磐皇子に皇位を譲りたいと考えていたし、一説には一度は皇位についたとも伝えられているため、安康天皇が記録に残るより短い期間皇位につき、実際は市辺押磐皇子が政務全般を取り仕切っていたとすれば「興」=「市辺押磐皇子」と言う可能性も無きにしも非ずである。(独自研究)
D説[編集]
D説の問題点はC説同様にB説に準ずる。興が安康天皇ではなくて木梨軽皇子である点を除いて他はB説に同じで、讃と珍は兄弟であるという宋書、梁書、南史に記載されている系譜を無視することになってしまう事になり、C説でも系譜との関係が明確に説明出来ていない[10]。允恭天皇の皇子には木梨軽皇子、市辺押磐皇子、後の雄略天皇となる大泊瀬稚武皇子らがおりその中で木梨軽皇子は第一皇子であった。皇位継承順位としては申し分ないが近親相姦というタブーを犯しており流刑になっているという記録もある。普通に考えれば興は誰かと考えたとき、安康天皇>市辺押磐皇子>木梨軽皇子という結論になってしまう。(独自研究)
E説[編集]
脚注[編集]
読み方[編集]
注釈[編集]
引用[編集]
- ↑ 安本美典著『倭の五王の謎』27頁一覧表
- ↑ 安本美典著『倭の五王の謎』27頁一覧表
- ↑ 安本美典著『倭の五王の謎』27頁一覧表
- ↑ 安本美典著『倭の五王の謎』27頁一覧表
- ↑ 安本美典著『倭の五王の謎』27頁一覧表
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』52頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』52頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』53頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』53頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』54頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』54頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』54頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』54頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』55頁
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』7頁6行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁5行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁3行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁4行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』7頁7行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁6行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁5行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁6-7行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』7頁8行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁7行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁8行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』7頁9行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁8-9行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』7頁10-13行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁10行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁11行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁11行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』7頁13行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁10行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』8頁1-3行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁12行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』24頁12行目から25頁1行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』25頁2行目
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』55頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』55頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』55頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』56頁
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁11行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁13行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』25頁3行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』8頁4行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』25頁4行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』25頁5-6行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁14行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』37頁15行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』8頁5行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』25頁7行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』8頁6-10行目
- ↑ 藤間生大著「倭の五王」』25頁8-10行目
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』8頁11行目
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』56頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』56頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』56頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』56頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』56頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』57頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』57頁
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』57頁
- ↑ 森公章著『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』8頁12-13行目
- ↑ 尾崎克之他著『完全保存版 天皇125代』57頁
- ↑ 安本美典著『倭の五王の謎』P29 12-13行目
出典等[編集]
参考・引用等[編集]
- 尾崎克之 栗原加奈夫 岡林秀明 常井宏平 『完全保存版 天皇125代』2128、宝島社〈別冊宝島〉、2014年2月23日、1st。ISBN 978-4-8002-2156-8。
- 笠原秀彦 『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』1617、中央公論社〈中公新書〉、2013年5月10日、27th。ISBN 4-12-101617-3。
- 藤間生大 『倭の五王』685、岩波書店〈岩波新書(青版)〉、1982年9月10日、初版第14刷。
- 森公章 『5世紀の東アジアと倭王群像 倭の五王』002、山川出版社〈日本史リブレット人〉、2013年8月31日、初版第2刷。ISBN 978-4-634-54802-2。
- 安本美典 『倭の五王の謎』 講談社〈講談社現代新書〉、1981年12月10日、初版。ISBN 4-06-145637-7。
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