百済
百済(くだら)は、朝鮮半島の南西部にあり、紀元前18年 - 663年の約700年間にわたって韓半島南西部を支配した古代国家である。
概要[編集]
現在の朝鮮半島の南西部を百済が支配し、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、および、半島南部の伽耶諸国とあわせた時代を朝鮮半島における三国時代という。
建国[編集]
『三国史記』(百済本紀)によれば、紀元前18年に高句麗の祖の朱蒙(チュモン)の三男、温祚王によって建国されたとする。温祚王は、兄の沸流とともに臣下を率い南へ向かい、漢江の近くに慰礼城と宮殿を築いたとする。温祚王に従い「すべての民衆が喜び従った」として国名を百済とした。『隋書』百済伝では百済王の祖先は高麗国(高句麗)であるとする。
第8代の古爾王(古尓王)のとき、楽浪の辺境地域を攻撃し、中国の郡県の勢力と対峙し、領土を拡張した。260年、佐平以下15等からなる官制を整備した。
第13代近肖古王は百済の王権を確立した。369年9月、高句麗の斯由王(故国原王)が2万の大軍を率いて百済との国境に駐屯し百済の民家を襲った。近肖古王は太子の近仇首に出兵を命じ、高句麗軍を急襲して打ち破り、民を救った。371年、高句麗と戦い、故国原王を平壌城で戦死させ、領土を拡張し漢山 (現ソウル) に遷都した。新羅に使臣を数回に渡り派遣し、馬を贈った。百済は早い段階から学問や技術など様々な分野に精通した者に博士の称号と官職を与えた。
25代の武寧王は461年に九州沖の離島で生まれたとされる。521年に中国・梁より「使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王」の称号を得た。
第26代の聖王は、武寧王の子である。日本書紀では聖明王と記される。538年、聖王は日本に仏像と経典を伝えとされる(「仏教公伝」)。 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「大倭国の仏法は、斯帰嶋宮に天下を治めた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の世、蘇我大臣稲目宿禰が仕えていた時、天皇在位7年戊午(538年)12月に伝わった」と記載される。『上宮聖徳法王帝説』も538年のこととする。日本書紀では552年のこととしている[1]。538年、首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、国号を「南扶余」と改めた。554年、百済は倭とともに、新羅と戦い、聖王は戦死した。
660年、唐・新羅連合軍によって百済は滅ぼされる。しかし残党による国家復興運動が起こり、残党は日本に救援を要請する。日本の斉明天皇と中大兄皇子はこれに応じて救援軍を派遣するが、斉明天皇は救援のために赴いた筑紫国において病気により崩御する。中大兄皇子によってなおも救援軍は指揮がとられるが、663年6月に残党が擁立した百済王・扶余豊璋が重臣の鬼室福信を謀反の疑いにより斬り殺したのを発端にして新羅・唐連合軍が百済に攻め入る。中大兄皇子も日本軍を救援に派遣して両連合軍は同年8月27日に白村江(朝鮮西南部を流れる錦江の古名)で激突し、日本・百済連合軍が大敗して撤退を余儀なくされ、これにより百済は完全に滅亡した(白村江の戦い)。
百済の旧領の大半は唐の支配下に置かれたが、668年に高句麗が滅ぼされた後に自国も支配下に置かれることを恐れた新羅によって領土奪回運動が起こされ、その過程において唐は676年に撤退して旧百済領は最終的に新羅に組み入れられた。
百済王の一覧[編集]
- 温祚王(在位18-28年)
- 多婁王(28-77)
- 己婁王(77-128)
- 蓋婁王(128-166)
- 肖古王(166-214)
- 仇首王(214-234)
- 沙伴王(234)
- 古尓王(234-286)
- 責稽王(286-298)
- 汾西王(298-304)
- 比流王(304-344)
- 契王(344-346)
- 近肖古王(346-375)
- 近仇首王(375-384)
- 枕流王(384-385)
- 辰斯王(385-392)
- 阿莘王(392-405)
- 腆支王(405-420)
- 久尓辛王(420-427)
- 毗有王(427-455)
- 蓋鹵王(455-475)
- 文周王(475-477)
- 三斤王(477-479)
- 東城王(479-501)
- 武寧王(501-523)
- 聖王(523-554)
- 威徳王(554-598)
- 恵王(598-599)
- 法王(599-600)
- 武王(600-641)
- 義慈王(641-660)
- 豊璋(660-663)
- ↑ 冬十月。百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。(日本書紀卷第十九)