木梨軽皇子
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木梨軽皇子(きなしのかるのみこ 生没年不詳)は允恭天皇の第一皇子。
概要[編集]
木梨軽皇子は允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。母は皇后の忍坂大中津比売命[読 1]。同母弟に堺黒彦皇子[読 2]、穴穂皇子[読 3](後の安康天皇)、八釣白彦皇子[読 4]、大泊瀬稚武皇子[読 5](後の雄略天皇)がおり、同母妹に名形大娘皇女[読 6]、軽大娘皇女[読 7]、但馬橘大娘皇女[読 8]、酒見皇女[読 9]がいた[1]。
木梨軽皇子は同母妹の軽大娘皇女は同母弟妹であった故に当然タブーであったが強く惹かれあっていた。允恭天皇24年6月、天皇の御前に異変が生じたため卜者に占わせたところ、タブーが明らかとなった[1]。
その後は古事記によると皇子は伊予国に流刑、皇女もあとを追ったとある。また日本書紀には皇子は太子で世継のため処刑を免れ、皇女だけが伊予国に流されたとある[1]。
允恭天皇42年1月、天皇の崩御により弟の穴穂皇子と皇位継承で争うが、タブーがある木梨軽皇子に味方するものはほとんど無く結局自刃した[2]。
脚注[編集]
読み方[編集]
注釈[編集]
出典等[編集]
参考・引用等[編集]
- 大河原竜一 『日本古代史大事典』 上田正昭、大和書房、2006年1月30日、1st。ISBN 4-479-84065-6。
- 笠原秀彦 『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』1617、中央公論社〈中公新書〉、2013年5月10日、27th。ISBN 4-12-101617-3。
- 安本美典 『倭の五王の謎』 講談社〈講談社現代新書〉、1981年12月10日、初版。ISBN 4-06-145637-7。