中山高陽
中山 高陽(なかやま こうよう、享保2年(1717年) - 安永9年3月12日(1780年4月16日))は、江戸時代中期の日本の南画家、書家、漢詩人。
土佐国堺町(現高知県高知市堺町)の豪商「阿波屋」の次男として生まれる。元の姓は中山田氏で、香宗我部氏の子孫。名は象先(ぞうせん)、土佐仲延沖(とさちゅうえんちゅう)、延冲(のぶおき)。字は、汝玄、子達、延冲(のぶおき)、子和。幼名は松之助、のちに清右衛門。通称、阿波屋清右衛門。号は、高陽山人(こうようさんじん)、玩世道人(げんせいどうじん)、酔墨山人(すいぼくさんじん)、酔墨子(すいぼくし)、松石斎(しょうせきさい)など。土佐における江戸時代最大の画家と評される[1]。
生涯[編集]
高陽の家系は長宗我部氏の一門で土佐の国衆であった香宗我部家で、長宗我部元親の弟・香宗我部親泰に仕えた中山田泰吉の長男・秀長の家系といわれる。秀長の家系は泰吉の死後、商家となって土佐における城下町でも有数の富商である阿波屋として繁栄したが、この家系から生まれたのが高陽といわれる[1]。
高陽は幼い頃より聡明で、儒学と漢詩を藩儒・富永惟安に、書を細井広沢門人の関鳳岡に学ぶ。画は南画の先駆者・彭城百川に師事する。
はじめ土佐で画塾を構え盛況であったが、宝暦8年(1758年)[2]に江戸に出て開塾。この頃土佐藩の御用絵師となる。宝暦11年(1761年)には土佐藩より三人扶持を給せられ名字帯刀を許される。
詩・書・画(特に肖像画、花鳥画)に優れ、また俳諧も嗜んだ。著名な文人墨客と盛んに交流し、特に交友の深かった詩人の井上金峨の賛、書家の沢田東江の書、高陽の画を合わせて「三絶」と評されるほど江戸庶民の人気を得た。木村蒹葭堂や浦上玉堂などとも関係があった。多くの著作があり、広く読まれた。
明和9年(1772年)3月、火事で住居を失ったがこれをきっかけに、約半年をかけて奥州に旅立つ。仙台・松島・平泉・山寺・象潟・酒田などを巡り、その記録を『奥游日録』に著す。このとき旅先の各地で書画や詩文を教え、多くの作品を残している。安永5年(1776年)には熱海を旅し、その地方の風俗などを克明に記した『熱海紀行』を著す。
安永9年(1780年)、土佐に帰る途中、大坂発の船中で客死。享年64。精神病の発作が原因かと推定される。
高陽は潤筆料規定書を作成し、画業で生計を立てられることを後進に伝えた。また彼が江戸に南画を伝えた功績は大きく、門弟を通じてやがて谷文晁が江戸南画を確立することになる。
著書[編集]
「人物道釈画」「山水画」をはじめ、種々の画題に対して所見を述べている[3]。
- 『熱海紀行』 1779年
- 『中山高陽画譜』
代表作[編集]
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款 | 備考 |
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鳳凰孔雀図 | 個人 | 1759年 | |||||
象潟真景図(象潟の古景図) | 紙本墨画 | 1幅 | 103.5x28.4 | 蚶満寺 | 1772年 | にかほ市指定文化財(絵画) | |
塩釜観月図 | 1772年 | ||||||
八州勝地図 | 静岡県立美術館 | 1777年 | |||||
蘭亭曲水図巻 | 個人(東京国立博物館寄託) | 1778年 | 重要美術品 | ||||
湖山秋景図 | 96.5x27.5 | 東京国立博物館 | |||||
李白観瀑図 | 高知県立美術館 |
門弟[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
関連書籍[編集]