細川定輔
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細川 定輔(ほそかわ さだすけ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣[1]。
略歴[編集]
父は細川国隆。父の時代から長宗我部国親に仕え、その跡を継いだ定輔も長宗我部家に仕えた。娘を香宗我部秀通に嫁がせ、その娘が生んだ中山田泰吉、中山田秀政らを秀通が暗殺された際に庇護している[1]。
永禄4年(1561年)、長宗我部元親が土佐国土佐郡神田城を制圧した際、定輔が城主に任命された。永禄6年(1563年)、本山茂辰が朝倉城を放棄して退去すると、元親から同城の守備を任された。以後、元親の重臣として土佐統一戦争に貢献し、天正2年(1574年)に元親が幡多郡を平定した際に吉奈城の城主に任命される。土佐統一後の四国制圧戦争では阿波国や伊予国に転戦して功績を立てた。また、出家して宗桃と号している[1]。
長男に備前守がおり、彼は土市城に在城し、次男の頼定は池城主となっている[1]。