三厩村
三厩村(みんまやむら)は、青森県東津軽郡の北西、津軽半島の最北端に位置していた村である。平成17年(2005年)3月28日、同郡の蟹田町、平舘村と合併し、外ヶ浜町となったため消滅した。
概要[編集]
津軽半島の最北端に位置し、津軽海峡を隔てて北海道の渡島半島と対している村だった。津軽山地が海にまで迫っているので平地が乏しく、海岸の県道に沿って小さな集落が点在している。
この村の「三厩」は源義経の生存伝説にちなむものである。文治5年(1189年)に源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に攻められて自害したとされている源義経であるが、実は生き延びて名を義行、あるいは義顕と改めてこの地に来ると、北海道に渡ろうとしたが風雨が激しく渡れなかった。そのため、義経は3日3晩にわたって正観音に祈願すると、満願の日に白髪の老人が現れて海岸の洞窟に3頭の竜馬がいる旨を告げ、義経はその言葉に従って洞窟に行き竜馬に乗って北海道に渡った。義経は観世音の恩義を感じて、出発に際して念持の高さ1寸(およそ3センチ)の白銀の正観音像を海べりの岩土に安置してから渡海したという。江戸時代初期になってこの地を訪れた僧侶の円空がその像を発見し、往時を偲んで観音像を刻み、胎内に白銀の正観音を収めて草庵を営み、これが現在に伝わる義経寺の開基となるが、三厩とは「三頭の竜馬」すなわち三馬屋に由来するのである。
村域は約9割が山地で、そのため高級建築材のヒバの産地として知られる。また、漁業では三厩昆布でも知られている。
ただし最北端の寒村であったため、義経伝説につながる村とはいえ交通は不便で、陸の孤島のような寒村であった。ところが、昭和33年(1958年)に津軽線が三厩まで延長されたこと、そして竜飛崎付近が青函トンネルの本州側の出入り口に決定し、試掘調査が行われて昭和60年(1985年)3月に青函トンネルが開通すると、竜飛崎から東の袰月海岸にかけての一帯は津軽国定公園に指定されて、一躍最果ての地の村として旅行客が訪れる観光地にもなった。
平成17年(2005年)3月28日、同郡の蟹田町、平舘村と合併し、外ヶ浜町となったため、三厩村は消滅した。
人口の変遷[編集]
平成8年(1996年)3月31日の住民基本台帳によると、当時の人口は3114人。廃止する頃の平成17年(2005年)3月1日の人口は2364人である。
地理[編集]
南の小泊村との境となる山地より流れる増川川と算用師川が、北上して三厩湾に流れ込む。三厩湾に面した三厩港の付近に、村役場がある。鉄道は津軽線と海峡線(津軽海峡線)が通り、このうち津軽線は村に入ってすぐの三厩駅が終点となり、海峡線は青函隧道が村の地下を通っているが、村域内で地上に出ることはない。村内に竜飛海底駅があり、その上に竜飛崎がある。
隣接していた自治体[編集]
歴史[編集]
- 1888年 - 今別村外六ヶ村(大川平、増川、三厩、宇鉄、浜名、鍋田)の組合を解き、三厩村が独立。
- 1889年4月1日 - 町村制施行により増川村、三厩村、宇鉄村が合併し、三厩村が発足。
- 1958年10月21日 - 津軽線、蟹田・三厩間開通。
- 2004年7月20日 - 合併の枠組みについて住民投票を求める「住民投票を実現する会」が三厩村長の解職を請求する署名簿を提出する。
- 2004年8月6日 - 蟹田町と平舘村の3町村で「東津軽3町村合併協議会」を設置する。(注:左記2町村と三厩村は隣接していない。)
- 2004年8月27日 - 三厩村選挙管理委員会は842人分の署名簿のうち131人分の署名を無効とし、三厩村長の解職請求を退ける。
- 2005年3月28日 - 蟹田町、平舘村との市町村合併により、外ヶ浜町が発足。
経済[編集]
産業[編集]
漁業[編集]
- 三厩漁港
- 龍飛漁港
- 宇鉄漁港
姉妹都市・提携都市[編集]
国内[編集]
教育[編集]
交通[編集]
鉄道路線[編集]
バス[編集]
- 三厩村地域循環バス(三厩〜龍飛)
道路[編集]
船舶[編集]
- 三厩港
- 東日本フェリー 三厩 - 北海道福島町(ただし1998年以降運航休止、三厩村、福島町では他社の参入を募集中)