エルヴィン・ロンメル

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エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルErwin Johannes Eugen Rommel1891年11月15日 - 1944年10月14日)とは、ナチス・ドイツの軍人である。通称は「砂漠の狐」。陸軍元帥であり、第2次世界大戦におけるナチス・ドイツの最も人気の高い指揮官の一人である。

生涯[編集]

若い頃[編集]

1891年11月15日、ウルム近郊のハイデンハイムで生まれる[1]。父親は学校の校長であった[1]。ロンメルは1910年士官候補生になり、1914年から開始された第1次世界大戦では小隊長となり、後に中隊長、さらに戦闘集団長として昇進している[1]。この頃から既に戦闘の才能を開花させ、アルプス大隊の中尉としてルーマニアイタリアのカポレットで戦闘し、敵地深くに侵入して奇襲と戦闘力で敵を圧倒して敵兵の多くを捕虜にする大戦果を挙げた[1]。このため、1級および2級の鉄十字章をはじめ、最高の名誉とされるプロイセン最高勲章(POUR LE MERITE)を授与された[1]

1918年に第1次世界大戦が終結すると軍に戻り、主に歩兵方面を歩き、部隊勤務の他にドレスデンの歩兵学校教官にもなった[1]

ヒトラーの配下[編集]

ロンメルは正確にはナチスの党員では無く、党籍に身を置いたことはない[1]。ただアドルフ・ヒトラーが政権獲得を目指して運動を繰り返していた初期から熱烈なヒトラー支持者であったことは事実で、ヒトラーユーゲントの軍事教官となり、ズデーテン侵攻と1939年ポーランド侵攻による第2次世界大戦の開始の時には、総統警護大隊長の地位にあった[1]

アドルフ・ヒトラーがベルギ―及びフランスへの侵攻作戦を開始すると、ロンメルは第7機甲師団の指揮官となる[1]1940年5月、ロンメルの師団はアルデンヌを経由して一路進軍し、英仏海峡へ向けて快進撃を続け、ロンメルはこの一連の戦闘で機甲戦術を如何なく発揮した[1]

1941年1月中将に昇進し、2月にヒトラーからリビアへ赴くように命じられた[1]。これはアフリカ戦線でイギリス軍に苦戦する同盟国のイタリア軍を助ける事が任務であり[1]、ヒトラーはこの時点であくまでアフリカ戦線はそこまで重視はしておらず、ロンメルの命じられた内容はイギリス軍をエジプト国境内まで撃退する事だった。ロンメルは2月9日付でアフリカ軍団の司令官に任命された[1]

アフリカに着いたロンメルは軍団のこれまでの戦い方を一新し、自己流の戦い方を強要した[1]。1941年3月21日エルアゲイラでイギリス軍を破り、3月から6月の戦いでキレナイカからイギリス軍を破り、さらにサレムでもイギリス軍を破り、イギリス軍は連戦連敗でまだ死守していたものの既にトブルクは風前の灯も同然だった[1]。イギリスの首相であったウィンストン・チャーチルは敗戦し続けた司令官のアーチボルド・ウェーヴェルを更迭し、クルード・オーキンレックを新たな司令官に任命した[2]

一方のロンメルは度重なる勝利により、1942年1月30日付で大将に昇進した[2]。しかし、ロンメルの攻勢にも限界が訪れていた[2]。いくらロンメルが個人的な指揮官の能力、作戦能力に優れていてもイギリスとドイツにおける兵站・補給の差[2]、ひいては国力の差などがあった。ヒトラーはこの頃、ソ連と締結していた独ソ不可侵条約を破棄して独ソ戦を開始しており、そのためドイツ軍の戦力の多くはソ連戦線に回されており、ロンメルのいたアフリカ戦線はあまり重要視されなくなっていた[2]。そのためもあり、1941年11月にイギリス軍が反攻に出るとロンメルは兵力と戦車に相当数のダメージを被りながらベンガジまで撤退せざるを得なくなった[2]。しかしヒトラーから新たに戦車の補給を受けるに及んでロンメルは態勢を立て直し、イギリス軍を各地で破って遂にエジプト国境にまで到達する[2]1942年5月21日には自らも危うく捕縛される危険を冒しながらも遂にトブルクを落としてイギリス軍の武器や補給品を大量に捕獲した[2]。これにより5月22日付でロンメルはヒトラーから陸軍元帥に昇進された[2]

トブルクも失ったイギリス軍は既に軍としての統率を失っており、アレキサンドリアから約80キロのところにあるエル・アラメインの陣地にまで逃亡していた[2]。ロンメルはイギリス軍を追ってさらに進撃するが、これはクルード・オーキンレックによって防がれる[2]。だが、相次ぐ敗戦のために結局はクルード・オーキンレックもチャーチルによって更迭され、新たな司令官としてバーナード・モントゴメリーが任命される[2]。モントゴメリーは作戦でロンメルと戦うのは不利と見て、戦闘資材や戦力増強によるいわゆる物量で総力を挙げてロンメルを叩き潰そうとした。アフリカの制空権はイギリス側にあったために戦闘資材は豊富に補給されてイギリス軍は強化され、ここに及んでドイツ軍は圧倒的物量の前に押されるようになる[2]

加えてこの頃のロンメルは体調を崩しており、胃の痛みに悩まされるようになってベルリンに戻っての入院加療が必要とされたため、アフリカ戦線を離れる事になった[2]。このため、ロンメル不在の中で1942年10月にはイギリス軍によるエル・アラメインの戦いが始まり、ロンメルは急ぎアフリカに呼び戻されるも既に戦闘開始から2日が過ぎての帰国は最早ロンメルでも戦闘を挽回する事は不可能であり、11月にロンメル軍団は北アフリカの海岸沿いに総退却せざるを得なくなった[2]。ロンメルはアメリカ軍も加えてさらに強力になったイギリス軍に対し勇敢に遅滞戦を演じていたものの、11月8日にイギリス・アメリカ連合軍によるトーチ作戦が行なわれて、最早アフリカ戦線での勝算は皆無となった[2]

1943年3月、ロンメルはチュニジアから撤退し、北イタリアの軍集団Bの司令官となる[2]。1943年末、ロンメルはフランス北部の沿岸防備査察官の任務を与えられて、西部総軍司令官であったフォン・ルントシュテット陸軍元帥配下の軍集団の一つの指揮を任された[2]。ロンメルは連合軍の上陸について予想し、敵軍に橋頭保を作らせないように上陸を徹底的に阻む事を主張したが、ルントシュテットは後方にある強力な機動戦力で上陸部隊を粉砕するとして作戦をめぐり対立[2]。また、ロンメルは機甲戦力を沿岸に張り付けて砲台と歩兵陣地を配置し、地雷400万発を敷設するように命じるなど、連合軍の上陸を阻むための様々な作戦を考案している[2]

だが、ノルマンディー上陸作戦が始まった際、ロンメルは現場を離れてベルリンにいた[2]。この事もあり、上陸作戦で連合軍を阻めるドイツ軍の指揮官はおらず、上陸作戦は連合軍の勝利で終わった。

対立と最期[編集]

ロンメルはアフリカ戦線、フランスにおける連合軍の豊富な物量、並びに制空権が有する影響力を考えて、既にこの戦争に勝算は無いと悟っており、ヒトラーに対して2度に及んで戦争終結のために方針転換するように促した[2]。しかしヒトラーは聞き入れず、ロンメルは次第にヒトラーの高飛車で高圧的な戦争指揮に対して疑問を抱き、その忠誠にも翳りが生じ始めた[2]

このような中でドイツ国内ではヒトラー暗殺計画が練られた[2]。ロンメル自身はこの暗殺計画に直接は加わっていなかったが、ヒトラー打倒を目指す軍人らと接触していたことは事実である[2]。計画に参画した軍人らはドイツ国内で人気があるロンメルをヒトラー暗殺後に国家元首に据えようと考えていたという[3]。ロンメルは暗殺計画そのものには反対していなかったが、ヒトラーを暗殺するよりは逮捕して裁判にかけることを望んでいたとされ、これらは全て論争における話し合いだけに終わった[3]

1944年7月17日、ロンメルは連合軍の空襲で頭部を負傷した[3]。頭蓋骨を骨折しており、ウルムの自宅に送られて治療することになった[3]

7月20日、ヒトラー暗殺計画が実行されるも計画は失敗し、首謀者の一人であるフォン・ホーファッカーが拷問に耐えかねて死去する直前にロンメルの名を漏らしたことによりロンメルも暗殺計画に参画していたことが明らかとなる[3]。この時、ロンメルは空襲で受けた傷が回復しつつあったが、10月14日に暗殺計画の調査担当の将官が2名(ヴィルヘルム・ブルクドルフ中将とエルンスト・マイゼル少将)、ロンメルの自宅を訪れて、ロンメルに服毒自殺するか民族裁判所で裁かれるかのどちらかを選ぶように求めた[3]。ロンメルはベルリンに移送される途中で殺される可能性や、裁判を選べば家族にも塁が及ぶ事を考えて服毒による自殺の道を選んだという[3]。表向きはフランスで受けた傷がもとで死亡した事にされ、名誉の軍葬をもって葬られたが、これはロンメルの持つドイツ国内での人気を考慮しての対処であり、ヒトラーは国民の士気を維持するために戦争の英雄として、忠実なナチスの将軍としてロンメルを葬ったのであった[3]

動画[編集]

https://youtube.com/shorts/AesN4q9DcSQ?si=7ShpqCm8RMH7lQiG

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o 『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年。326頁
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年。327頁
  3. a b c d e f g h 『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年。328頁

参考文献[編集]

  • ロベルト・ヴィストリヒ 『ナチス時代ドイツ人名事典』 滝川義人訳、東洋書林、2002年。ISBN 978-4887215733。