黒田藩
黒田藩(くろだはん)とは、現在の愛知県一宮市木曽川町(旧葉栗郡木曽川町)に存在した藩である[1]。藩が存在したのは慶長5年(1600年)から慶長6年(1601年)のわずか1年間だった。藩庁は黒田城[1]。
歴史[編集]
黒田は明応年間(1490年頃)は織田氏の家臣・五藤光正が城主として支配していた。その後、岩倉織田氏に仕える山内盛豊(山内一豊の父)が支配するが、盛豊は尾張の完全支配を目指す織田信長の攻撃を受けて戦死した[1]。その後、信長は従弟の織田広良(織田信清の弟)に黒田城を与えたが、広良は永禄4年(1561年)の美濃攻めで戦死した[1]。そのため犬山城主は信清の家老・和田新助が就任し、その新助も天正2年(1574年)に戦死すると弟の和田定教が就任した。天正10年(1582年)には織田信雄の家臣・沢井雄重が黒田城主となる[1]。
天正18年(1590年)の小田原征伐の後、信雄は豊臣秀吉により改易され、沢井雄重も信雄に従って黒田を去った[1]。このため、秀吉の家臣・一柳直盛が新たに黒田城主となる。この直盛は秀吉に古くから仕える一柳直末の弟であるが、直末は小田原征伐の時に相模山中城攻めで戦死したので直盛が家督を相続していた。秀吉は直末の戦功などから直盛に知行高3万石を与えた。直盛は秀吉の甥・豊臣秀次付とされたため、天正18年(1590年)9月に直末の母親に対して秀次から508石の知行が与えられ、さらに天正20年(1592年)には美濃本巣郡の内に4566石を加増として与えられ、直盛の知行はこの両方を合わせておよそ3万5000石となった[1]。
直盛は秀吉に従い奥羽征伐などにも従軍したが、秀吉没後は徳川家康に接近して東軍に属し、関ヶ原の戦いなどでも活躍して戦功を挙げ、戦後に1万5000石を加増され、慶長6年(1601年)に5万石で伊勢神戸藩に加増移封された。これにより黒田藩は廃藩となり、その所領は清須藩主・松平忠吉の所領として組み込まれた[1]。
歴代藩主[編集]
一柳家[編集]
3万5000石。外様。
- 直盛(なおもり)【慶長5年 - 慶長6年】