黒瀨豊
黒瀨 豊(くろせ ゆたか、1915年〈大正4年〉5月21日 - 2005年〈平成17年〉12月24日)は山口県の元県庁職員、下関市の元助役である。平成15年6月1日に双光旭日章を受賞。
経歴[編集]
山口県小郡町(現在の山口県小郡市)で、父の黒瀨惣太郎、母の黒瀨タケの長男として命を授かった。
小郡小学校上郷分校を卒業後、中学校へ進学する予定であったが家庭の事情で叶わず、家庭の裏山での果樹園の開園や人夫、青年団での剣道・柔道・長距離走に明け暮れた。
1937年(昭和12年)7月28日に赤紙の召集令状が届けられ、四十二連隊第三大隊大行李の輜重特務兵への配属を命じられた。輜重兵には進級制度がなかったが、勅命改正より進級制度が誕生し、1940年(昭和15年)の秋には隊員およそ70名を率いる大行李長に大抜擢され、北支の八遠嶺の戦闘から中支、南支、満州、フランス領インドシナと広範囲で転戦した。1941年(昭和16年)大東亜戦争の準備のため編成替えが行われ、内地帰還となった。
帰還後、山口線の車内で、恩師である安井篤麿から何度も県庁への就職を勧められたため、山口県庁へ務めることになった。
1967年(昭和42年)4月、宇部市への出張から帰宅したところ、平井総務部長から、すぐに山口県知事に会えということで、知事校舎に行くと「今度下関市に行って欲しい。下関市長は、これまで日本社会党の木下友敬さんから自民党の井川克巳さんに替わったので、君に下関市に行って助役として助けて欲しい。」と言われた。当時の下関市は、財政再建の指定を受け、苦しいところであり、他の都市と違って外国との交渉がある可能性があったので「こんな大役駄目です。」と断ったところ「万が一のときはすぐ県が引き取る形で責任をもつので、この度は是非引き受けて欲しい。」と役職を勧められた。よって同年5月24日から山口県下関市の助役に就任した。
1975年(昭和50年)5月、市議会の多くの人から留任を打診されたが助役を二期で退任。
1976年(昭和51年)、小郡町長選挙の推薦を受けた。出馬を拒否したが、当時町議会は、保守が二つに分裂していたため候補者が決まっておらず、宮本氏が革新からの出馬を表明したため、町政を保守から守るため、保守が一本化するという条件で立候補を引き受けた。ところが、小郡町選は500票差で落選した。
同年、商工会議所の斎藤会頭、河村副会頭から推薦を受け、専務理事に就任。内部態勢の強化や町造りや事業の活性化等と活動した。
また、地元への恩返しのため、老人クラブ(喜楽会)会長、長老会会長、県老連常議員監事、ペタンク競技連絡協議会会長を務めた。
2005年(平成17年)12月24日山口県内の病院で死去。享年90歳であった。
主な功績[編集]
山口県庁時代[編集]
庶務課での功績[編集]
- 山口市に住宅資金貸し付けの償還未収と厚挟小郡のダム建設に伴う自作農の農地資金貸し付け金の償還未収の2件が問題となっていた。誰もが困難な案件として避けていたが、戦後のインフラの気配を理由にこれらの問題を一気に解決した。
県政課での功績[編集]
- 当時の文部科学省の方針で、全国に6箇所あった高等商船学校を廃止にし、高等専門学校として3箇所程度設置するという構想が出されたので、学校設置の誘致を主導した。その結果、大島商船高等専門学校が設置された。
下関市助役時代[編集]
- 助役に就任したての頃、下関市の水道事業が料金の値上げをせざるをえないほど悪化していた。多数の人員整理、業務の合理化、職員給与の合理化等をすすめた結果、水道料金の値上げをせずに再建を達成した。
- 下関市の発展のため、島野工業、日清食品、ブリジストン等の工場誘致を主導した。
- 当時、市の成果物の卸売市場は唐戸の国道9号線沿いにあった。しかし、量の増加と運送形態が船舶・鉄道輸送からトラック輸送に変化したため道路が混雑するようになっていた。よって、トラック輸送に便利な一の宮に中央卸売市場を開設した。
- 下関市の商業が、北九州市と比べて老朽化してきたため、下関駅周辺の商業開発を主導した。国鉄の引き込み線の移設をし、大丸を核に、専門店街を配置し、周辺にホテル(東急イン)と東京銀行、山口新聞本社を配置した新しい商業核構想を成立させた。
人物[編集]
- 不必要なことは何もしゃべらない寡黙な性格であった。
- 天才肌であり、勉強熱心であったため、市長や知事、町民から深く慕われていた。
- お人好しであり、豪運の持ち主でもある。娘の結婚相手が金欠ということで、結婚相手が賭博で手に入れた、当時は利用価値がない秋田県秋田市の土地の権利書を購入した。数年後、その土地(八橋油田近辺)から石油が採取できることが判明した。
- 学業が大変優秀であり、分校時代は1位から3位、本校に行っても10番を下回ることはなく、毎年の終業式に成績優秀賞を貰っていた。中学校進学を考えていたが、祖父がお人好しで、他人の責務保証に多くの印鑑を押していたため、利子が膨大に膨れ上がり、家庭の財産全て当てても足らない金額であり、家庭が危機的な状況になった。当時、母は病中で「お前もせめて中学には入れたいが、こんな状態でそれが出来ぬことは誠に済まん。」と詫びる始末で、中学校進学は断念せざるを得なかった。
- 運動神経も抜群であり、青年団での剣道・柔道・長距離走等によく出席した。町の体育大会では1500メートル競争では常に優勝し、剣道も個人抜きの勝負で優勝した。また、柔道も道場通いで練習し、毎年行われていた山口農業高等学校と一般の合同競技大会において個人で準優勝をした。さらに、九州八県と山口一県による第二回九州一周駅伝に山口県代表選手として出場した。この一周の中で一番の難所である距離19km程度の宗太郎峠のコースに出場を命じられ、4位でバトンを受け、3位に順位を追い詰めた。区画賞にはならかなったが、かなりの好成績だった。二回目の出場は距離15km程度の鹿児島市街から市木農林までのコースであったが、3位でバトンを受け、福岡県の小柳選手に追いつけず追走し、2位であった。小柳選手は、ベルリンオリンピックの補欠ではあるが、日本代表選手に選ばれた。三回目の出場は、距離15km程度の福岡県の大牟田市のコースであり、福岡県チームに次いで2位でゴールした。これらの成績より、山口県陸上連盟に加盟し、明治神宮競技大会に出場してほしいと嘱望されたが、支那事変勃発より全て出場不可能となった。
先祖[編集]
黒瀨家は、数百年前から山口県小郡市に定住していたそうだが、1868年(明治元年)、留守の際に家が全焼し、家系に関する情報が消滅した。しかし、次のことからして部落でも上位の地位にあったと推測できる。
- 江戸時代からの古い墓には黒瀨の姓が彫られており、現存する墓自体も大変立派な物である。
- 前述の火災の後、火元であるのに最も速く復旧し、立派な家を建築した。
- 明治時代は、一定の租税を収めていないと選挙権がなかったが、黒瀨家には選挙権があった。
- 昭和の初期、第一回小郡町史編纂の際、編集者の小田村さんが来宅され「黒瀨家は昔地域で相当な役をやっておられたので、古い資料等を見せてほしい。」と言われた。
著書[編集]
- 我が人生行路(黒瀨豊の自伝。2002年2月1日に自費出版)
参考文献[編集]
- 我が人生行路