孫桓

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孫 桓(そん かん、198年[1] - 223年[1])は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将叔武(しゅくぶ)[1]孫河の3男[1]孫助孫誼の弟。孫俊の兄。孫韶従兄弟孫建孫慎の伯父。孫丞の従祖父。

生涯[編集]

容姿端麗で頭脳明晰だったため、早くから孫権に『宗室の顔淵』と言われて可愛がられた[1]。顔淵とは孔子の一番弟子である顔回子淵のことである[1]

兄の2人は早世していたため、武衛都尉に任命される[1]219年関羽討伐ではの残党5000人余を呉に帰順させる功を立てた[1]。25歳の時に安東中郎将に任命され、222年劉備との夷陵の戦いにも参加するが、当初は劉備の蜀軍の前に敗北し、夷道で劉備に包囲された[1]。しかし孫桓は奮戦して蜀軍は勝利できず、後に陸遜の火計に遭って蜀軍は壊滅するが、この際に劉備は敗走する中で「小童(孫桓)にしてやられた」と漏らしている[1]。この功績で建武将軍に昇進し、丹徒侯に封じられる[1]。223年、牛渚の督に任じられるが、横江塢を築いている際に急死した[1]。享年26。

三国志演義』では孫河の長男に設定され、史実同様に智勇兼備の将として描かれる。夷陵の戦いに参加して朱然と共に蜀軍に当たるが、関興らに大敗して部下の李異らを失い、さらに呉班にも敗れるなどやられ役を演じさせられている。ただし陸遜からは信任されていて包囲されても部下に信頼が厚い孫桓将軍なら大丈夫とまで言われている。劉備が敗走する際、孫桓は反撃に転じて多くの蜀将を討ち取り、名誉挽回した。死去は描かれていない。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 小出『三国志武将事典』P296

参考文献[編集]