長崎師範学校

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長崎師範学校(ながさきしはんがっこう) は、1874年明治7年)、長崎県に官立師範学校を設置した(ウィキペディア1943年昭和18年)設置とあるのは間違いである)。現在の長崎大学の母体の一つである[1]

沿革[編集]

文部省は府県の小学校設立に伴う教員養成のため、明治6年(1873年)に大阪府宮城県に、明治7年(1874年)には広島県愛知県長崎県新潟県に、それぞれ官立師範学校を設置した。これによって明治5年(1872年5月東京師範学校を含め、七大学区に各一校の師範学校が置かれることになり、教員養成の体制が整った官立長崎師範学校は1874年(明治7年)2月19日、日本全国7大学区に設置された師範学校の一つとして設置された。修業年限を2年とし、入学生徒定員を各100人(新潟のみ40人)とした。初等学校教員の養成(師範教育)を目的としていた。初代校長は長崎英語学校校長の渡辺温(兼務)であった。同時に小学教則講習所も設置した。渡辺温3月28日に「付属の吏員とともに長崎に着し」開校に着手した。5月8日に校則を制定し、5月20日には「告文を第五学区の各県に伝えて、6月30日を期し生徒100名を募る」旨を布告した。同年6月30日、長崎市桶屋町光永寺を仮校舎とし、6月末日まで70名の応募者の中から7月2日から7月9日にかけての入学試験により37名に入学を許可した。1874年(明治7年)7月15日に長崎英語学校を仮教場として開講し、7月16日に授業を開始した。教員は東京師範学校の卒業生が主力であった。教科は授業法、作文、数学、画学、習字、体操、諸科などであった。明治8年(1875年)中の進退数は入学者92名、卒業者12名、進級19名、退学23名であった[2]。相当数の退学者がいた。

1876年(明治9年)、長崎英語学校を廃止し、長崎公立師範学校を開設する。1877年(明治10年)、長崎公立師範学校を崎陽師範学校に改称した。

1878年(明治11年)2月に国の財政悪化から、官立長崎師範学校を廃止し、建物・備品は長崎県に移管された。 同年、勝山小学校に「小学教則講習所」(小学校教則教習所)を開設した[2]

1878年(明治11年)、崎陽師範学校を県立「長崎師範学校」(長崎県師範学校)と改称した[3](p.146)。1898年(明治31年)4月師範教育令により長崎県師範学校は「長崎県尋常師範学校」と改称した[3][4]

1943年昭和18年)4月1日、長崎県師範学校と長崎県女子師範学校を統合し、「官立長崎師範学校」を設置した。旧長崎県師範学校校舎(長崎西浦上)に男子部、旧長崎県女子師範学校校舎(大村下久原)に女子部を設置した。1945年(昭和20年)8月9日男子部校舎は原子爆弾投下により壊滅し、生徒54名が死亡。男子部も大村に移転した。

1949年(昭和24年)5月31日、新制「長崎大学学芸学部」が発足して長崎師範学校は長崎大学に包摂され、「長崎大学長崎師範学校」として在籍生徒が卒業するまで存続することとなった。1951年(昭和26年)3月、最後の卒業生を送り出し、長崎師範学校 (旧制)は廃止となった[5]

後身の長崎大学学芸学部は、1953年現在の文教キャンパスに移転し、女子部跡に大村分校が置かれたが、1954年に統合。1966年に教育学部となった。
西浦上の旧男子部校地は長崎大薬学部に転用されたが、1969年に統合された。

出身の著名人[編集]

  • 久保勘一 (長崎県知事や参議院議員)
  • 多比良久人 1935年(昭和10年)卒業 (画家)
  • 杉山貞 明治6年(1873年)入学(小倉高等女学校長)
  • 藤堂融 大阪控訴院検事長
  • 細見保 久留米高等女学校長、久留米高女3大恩人の1人

参考文献[編集]

  1. 長崎県教育会編(1976)『長崎県教育史』,長崎県教育委員会
  2. a b 平田宗史「官立長崎師範学校」福岡教育大学紀要,Vol32,pp.109-120
  3. a b 松森武嗣(2008)『長崎の後期中等教育の変容』三恵社
  4. 長崎大学(2016)「沿革」
  5. 長崎大学教育学部編(2005)『未来へ 創立百三十周年記念誌』