安祥城

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安祥城(あんじょうじょう)とは、現在の愛知県安城市安城町に存在した日本である。

概要[編集]

いつ頃築城されたかは不明であるが、室町時代中期には既に築城されていた。梁田直政畠山加賀守らが居城とした後、文明13年(1471年)に松平氏の第3代当主・松平信光がこの城を攻略して息子の親忠を置いた。その後、長親信忠清康ら歴代当主4代50年余りにわたり、松平氏歴代の居城となった。大永4年(1524年)に清康は居城を岡崎城に移し、以後はこの城が松平氏の居城となる。

清康は尾張織田信秀と攻防戦を繰り返す。守山崩れで清康が不慮の死を遂げると松平氏は衰退し、天文9年(1540年)に織田信秀によって占領された。天文18年(1549年)に今川義元の重臣・太原雪斎を総大将とした今川・松平連合軍が安祥城を奪回するために攻撃する。この際、本多忠勝の父・忠高は主君の松平広忠を守って戦死した。この安祥城の戦いには今川・松平連合軍が勝利し、城主の織田信広織田信長の庶兄)は今川氏によって捕らえられた。今川義元・太原雪斎は信秀の下にある広忠の嫡子・竹千代と人質交換を行なったことで有名である。

永禄3年(1560年5月19日桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川氏は急速に衰退し、この中で竹千代から松平元康と改名していた松平氏は独立し、永禄5年(1562年)に織田信長と清洲同盟を結んだ。これにより安祥城は必要無くなり、天正元年(1573年)に完全に破却された。

現在の城跡には松平親忠が創建した了雲院が江戸時代後期の寛政4年(1792年)に再建されて現在も存在する。この創建の際に城跡にはかなり改変が加えられたとされ、現在は了雲院南西隅に長さおよそ20メートル、幅1メートルほどの土塁と、本堂の南東に隅櫓跡が残っている。また安祥城の戦いで戦死を遂げた本多忠高の碑が存在する(この碑は寛政9年(1797年)に建立された)。

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