神崎武法
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神崎武法(かんざき たけのり、1943年(昭和18年)7月15日 - )は、日本の政治家、弁護士、検察官。
経歴[編集]
- 1948年(昭和18年)に中華民国河北省天津市で生まれた。千葉県立千葉高等学校を経て、東京大学法学部卒業。司法修習生20期を経て、1968年(昭和43年)に検察官に任官された。横浜地検、福岡地検、東京地検、那覇地検において検察官(検事)や外務省の領事移住部に出向、内閣審議官などを歴任した。検察官(検事)の在任中には「よど号ハイジャック事件」や「北海道庁爆破事件」の捜査も担当した。
- 法務省の刑事局付参事官室に勤務したのを最後に、1982年(昭和57年)に検察官(検事)を退官した。
【政界入り】
- 1983年(昭和58年)に衆議院総選挙に公明党の公認候補として立候補して初当選し、衆議員議員となる。1986年(昭和61年)に、公明党の副書記長、国際局長などに就任。
- 1993年(平成5年)に非自民連立政権の細川護熙を内閣総理大臣とする細川内閣で郵政大臣として神崎武法は初入閣した。1994年(平成6年)に細川内閣が内閣総辞職したため、神崎武法も郵政大臣を退任。1994年(平成6年)公明党の解党により「公明新党」を経て、1994年(平成6年)12月に新進党の結成に参加した。
- 1996年(平成8年)に新進党の党首の小沢一郎のもとに、新進党の総務会長に就任した。1997年(平成9年)12月に、小沢一郎(党首)が新進党の解党を宣言すると、旧公明党議員らは「新党平和」を結成し、代表に就任。1998年(平成10年)11月に公明党が再び結成されて、神崎武法が公明党代表(初代)に就任した。
【自公連立政権の時代】
- 1999年(平成11年)に自民党の小渕恵三(内閣総理大臣)から連立政権への参加要請を受け、これを受諾。1999年(平成11年)10月に小渕改造内閣が発足し、公明党からは続訓弘が総務庁長官として入閣した。
- その後、森内閣の支持率低迷が続くと、自民党内は「森降ろし」に動き始める。2001年(平成13年)の参議院議員選挙を控えて自民党とも危機感を共有していたのに、自民党内からは「森降ろし」の動きが見られなかったため、神崎武法が表に出て「森降ろし」の流れを作ることを決意した。「えひめ丸事故」をめぐる森首相の危機管理対応を批判し、記者懇談会でも森首相を連日批判するなど、「森さんが辞めなければこっちが辞めるしかない」との覚悟で「森降ろし」の流れを加速させていく。これに自民党内からも呼応する動きが出始め、2001年(平成13年)3月に森内閣が退陣するに至った。
- 2004年(平成16年)5月に、国民年金保険料の未加入期間があると報じられた民主党の菅直人を強く批判したが、のちに神崎武法にも国民年金の未納が発覚した。2004年(平成16年)年7月の参議院選挙で公明党が議席を増やした為に、責任問題には発展せず、2004年(平成16年)10月の公明党の党大会で公明党代表に4度目の選出された。
- 2005年(平成17年)の衆議院総選挙で8回目の当選するが。翌2006年(平成18年)に太田昭宏の公明党代表(第2代)の就任に伴い、公明党の常任顧問に就任した。2009年(平成21年)の衆議院総選挙でも与党に猛烈な逆風が吹き荒れる中で、9回目の当選をした。
- 2010年(平成22年)3月に、2002年(平成14年)頃から患っていた腎不全が悪化したため病気療養に専念するとして、衆議院の任期満了前に議員辞職することを発表した。2010年(平成22年)4月1日に衆議院議長の横路孝弘に議員辞職願を提出し、2010年(平成22年)4月6日の衆議院本会議で議員辞職が許可された。なお、政界引退後も、2021年(令和3年)まで公明党の常任顧問に留まっていた。
人物[編集]
- 座右の銘は「男子須らく巌頭に悍馬を立たしめよ」。
- 趣味は将棋(5段)、読書、旅行(ドライブ)、映画鑑賞、音楽鑑賞、韓流ドラマ鑑賞、アイロンがけ。
- 好物はスイカ。
- 好きな色はスカイブルー。
- 愛読書は池波正太郎『鬼平犯科帳』、勝海舟『氷川清話』。
- 好きな芸能人は渥美清、栗原小巻、田中好子など。
- カラオケの十八番は村田英雄の「花と竜」。
- 高校時代には演劇部に所属した。千葉高校演劇部の出身者には市原悦子、宇津井健らがいる。千葉高校の後輩には志位和夫(日本共産党委員長)もいる。
- 元フジテレビプロデューサーの横澤彪は高校・大学の先輩である。
- 司法修習生の同期に高村正彦(元自由民主党副総裁)、井上哲夫、横路孝弘(元衆議院議長)、江田五月(元参議院議長)、松尾邦弘らがいる。
- 郵政大臣時代の1993年(平成5年)10月8日の国会の参議院予算委員会で、下稲葉耕吉の質疑に対し、創価学会員であることを認めた。
- 何事にもこまめに取り組む性格で知られ、新進党時代の小沢一郎(党首)による神崎評は「メモばかり取る男」と述べていた。
- 1998年(平成10年)に公明党代表に就任して以降、公明党の連立政権への参加を主導し、以後10年間にわたる自公連立政権の中心的・象徴的な存在であった。
- 自公連立政権の発足時の自民党幹事長でのちに首相となる森喜朗は、神崎武法について「一度言ったら聞かない人でしょう」と述べていた。
- 選挙の際に「そうはいかんざき」のテレビCMで有名になったように、駄洒落(ダジャレ)好きでもある。また、松竹映画『男はつらいよ』シリーズの大ファンである。
- 2010年(平成22年)9月29日に中華人民共和国建国61周年を祝うレセプションに出席した。
政策・政治活動[編集]
- 「男女共同参画社会の実現が強く求められている。女性の社会進出が増大するにつれ、結婚後も独身時代と同じ姓(苗字)でありたいとする女性の意思は尊重されるべき」として、選択的夫婦別姓制度の導入に賛同する。
著書[編集]
- 『人権国家への道 21世紀の日本』(公明党機関紙委員会、2000年)