月岡野の戦い
月岡野の戦い | |
---|---|
戦争: 月岡野の戦い | |
年月日: 天正6年10月4日(1578年11月3日) | |
場所: 日本・越中国・月岡野(現在の富山県富山市南端部) | |
結果: 織田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田氏 | 上杉氏 |
指揮官 | |
斎藤利治 斎藤信利 |
河田長親 椎名小四郎 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 360名戦死 |
月岡野の戦い(つきおかののたたかい)とは、天正6年10月4日(1578年11月3日)に発生した織田信長軍(総大将・斎藤利治)と上杉景勝軍(総大将・河田長親)の戦いである。
概要[編集]
合戦に至るまで[編集]
天正5年(1577年)9月、能登国七尾城を落とし(七尾城の戦い)、さらに手取川の戦いで織田軍は上杉謙信率いる上杉軍に大敗を喫し、結果として加賀北部までを上杉方に制圧されてしまった。ところがそれから半年後の天正6年(1578年)3月、謙信が春日山城において急死する。
生涯独身を貫いた謙信に実子は無く、養子として上杉景勝(謙信の姉・仙桃院の次男)、上杉景虎(北条氏康の7男)があった。謙信は生前に明確に後継者を指名しておらず、またこの後継者争いに越後国内における国衆の利権争いなどが複雑に絡み合い、越後は錯乱ともいうべき血で血を洗う内乱が勃発した(御館の乱)。
この内乱は信長にとっては好都合であり、これを機に越中への進出を計画した。越中はもともと、守護の畠山氏が治めていたが、その畠山氏が衰退した後は守護代の神保氏が実質的に支配していた。しかし、神保氏は謙信の勢力に押されてこの頃は信長を頼って落ち延びていた。信長は神保一族の神保氏張には自分の姉(神保・稲葉夫人)を嫁がせて縁戚関係を結んでいた。また、神保氏嫡流の神保長住も信長の庇護下に置かれていた。
信長の命令を受けた長住、氏張らは直ちに越中において調略を開始。旧来の縁もあって、阿尾城(菊池武勝)、蛇尾城(斎藤信利)、さらに屋代一族などが調略に応じて織田方に降った。
ところが、越中には謙信から信任されて一職支配を任されていた今和泉城主の河田長親がいる。また、越中の有力国衆である椎名小四郎も上杉方として依然、強力な存在だった。この両者には神保や降った国衆だけでは歯が立たず、信長は重臣の斎藤利治を遣わした。
利治は斎藤道三の末子で美濃国加治田城主。所領も武儀郡から加茂郡にかけて広大な所領を持つ大名クラスで、信長やその嫡子・信忠から厚く信任されている人物だった。
名将・斎藤利治の活躍[編集]
利治は飛騨国経由で天正6年(1578年)9月24日に加治田から出陣。現在の越中西街道を進んで越中に入国し、神通川沿いに北上した。普通、越中に入国するのは加賀国か越後国からで、飛騨国経由は道が険しくて考えられなかった。そのため上杉側も油断していたのか、越中南部にある上杉方の津毛城(現在の上新川郡大山町)の城兵は、利治率いる織田軍の到来を聞いて驚き、戦わずに退散してしまった。そして、長住や氏張と合流した利治は、空き城になっていた津毛城を接収してそこに長住の兵を入れた。
河田長親は利治と織田軍の到来を聞き、慌てて今和泉城の守備を固めるために椎名小四郎とその軍も呼び集めた。これを見た利治は正面から攻めるのは難しいと見て、太田保内の本郷に本陣を構え、10月3日の夜に今和泉城の周囲を放火する挑発行動に出た。しかし、河田は応じずに籠城を続けたので、利治は未明に城攻めを諦めて撤退を開始した。
織田軍の撤退を知った河田は追撃の好機と見て、椎名と共に城から打って出た。利治はそれを待っていたかのように月岡野まで誘い込むと、ここで反転して攻撃を開始した。
月岡野とは扇状地で、起伏の多い地形であったという。利治は恐らく、本郷に出る前に周辺の地形をよく調べていたのであろう。月岡野の複雑な地形を利用して上杉軍と戦った。この時の両軍の兵力は不明だが、当時の美濃衆は畿内の制圧に向けて転戦しており、利治が率いる織田軍は恐らく河田率いる上杉軍より兵力では劣勢だったと推測される。しかし、利治は地形を利用した巧みな戦術で上杉軍を圧倒し、遂に上杉軍は崩れたって撤退。この戦いで上杉軍は360人の死者を出したという。
しかも、利治はこの戦いの前に蛇尾城の斎藤信利兄弟に手薄になるであろう今和泉城を攻撃するように使者を出していた。この策は成功し、河田と椎名が出陣して手薄になった今和泉城は斎藤兄弟の軍勢に落とされ、河田らは敗兵を率いて新川郡を捨てて富山城に撤退し、織田軍は一気に越中中部を平定したのであった。