生島足島神社奉納起請文
生島足島神社奉納起請文(いくしまたるしまほうのうきしょうもん)とは、永禄10年(1567年)に武田信玄が一族や家臣から自らに忠誠を尽くす旨を誓わせた血判付きの起請文である。
概要[編集]
起請文提出までの経緯[編集]
永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いで駿河国の今川義元が尾張国の織田信長に討たれた。これにより今川氏は急速に衰退し、遠州錯乱や三河国の徳川家康の自立などで混乱の極みにあった。このような隣国の状況を見た武田信玄は、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで越後国の上杉政虎との戦いに一応の終止符を打つと、それまでの同盟関係にあった今川氏との関係を切り、駿河に勢力拡大を図ろうとした(駿河侵攻)。
しかし、義元の娘・嶺松院を妻とする信玄の長男・武田義信は今川氏との同盟を破棄することに反対。義信は飯富虎昌・長坂勝繁・曽根周防守・穴山信邦ら側近や親今川派の家臣を糾合して信玄にクーデターを計画したとされ、永禄8年(1565年)に信玄によって粛清され、飯富ら側近はことごとく殺害され、義信は永禄10年(1567年)に自害を命じられた(義信事件)。長男が父親に謀反を計画し、それに家臣団が加担するという一種の御家騒動に甲斐武田氏の家中は非常に動揺したとされ、信玄は家臣団から今後も自身に忠誠を尽くす旨を誓わせる起請文を血判付きで提出させ、それを小県郡の生島足島神社に奉納した。
起請文の内容[編集]
以下は、生島足島神社に奉納された起請文の内容である。
謹んで申し上げます。 起請文
- 1、これ以前に捧げ奉った数通の誓詞に、確かに相違することはございません。
- 1、信玄様に対し奉り、逆心や謀反など企てたりはいたしません。
- 1、長尾景虎をはじめとして、敵方からいかなる利益をもって誘われようとも、同意したりはいたしません。
- 1、甲斐・信濃国・西上野国の3か国の諸将や兵が逆心を企てたとしても、私自身については無二に信玄様の御前を守り奉り、忠節を抜きんでる所存です。
- 1、このたびの駿河侵攻のために特に将兵を動員し、表裏が無く、心を2つに分けることなく、戦功を抜きんでて立てようとする旨を心に定める所存です。
- 1、家中の者が、甲斐国主にとって悪い事や臆病な意見を言ったとしても、一切同心したりはいたしません。
以上 右の条々に違反したら、上は梵天、帝釈・四大天王・閻魔法王・五遺の冥官、ことに甲州一二三大明神・国立と橋立の両大明神・御嶽権現・富士浅間大菩薩・当国の諏訪上下大明神・飯縄と戸隠、特に熊野の三所権現・伊豆・箱根、三嶋の大明神・正八幡大菩薩・天満大自在天神の御罰を被るでありましょう。今生においては癘病を享け、来世においては無間地獄の底に堕ちるでありましょう。以前、前に述べた通りです。
その後[編集]
『甲府市史』によると、現存する生島足島神社奉納起請文は83通に及ぶという。ただし、これはあくまで現存するものだけなので、実際はもっと起請文が存在していた可能性が高い。この起請文は義信がまだ存命していた永禄10年(1567年)8月に出されており、この時点で駿河侵攻は既に既定段階だったことがうかがえる。
信玄にすれば、長男が謀反を起こしてその家臣団が粛清され、そして義信も後に自害させられるという甲斐武田家にとって深刻な内紛を何とか抑えたいという思惑から、このような起請文を提出させたものと見られている。
しかし、この起請文に気になる箇所がある。それは「家中の者が、甲斐国主にとって悪い事や臆病な意見を言ったとしおても、一切同心したりはいたしません」である。この起請文が出されてから8年後、長篠の戦いで義信に代わって後継者となった武田勝頼は、織田信長や徳川家康に大敗を喫しているが、長篠の戦いでなぜ武田軍が、自殺行為に等しい馬防柵に突撃して死んで行ったのか。武田軍といえば経験豊富で精強な名将揃いの軍隊であり、長篠の戦いにおける戦況や兵力差から、とても勝てる状況でないことはわかっていたはずである。実際、『甲陽軍鑑』や『当代記』でも武田家臣は決戦を主張する勝頼に対して、無謀であるから撤退をと諌めたとある。しかし勝頼は聞き入れず、決戦に及んだとある。もし、この際の起請文にあるこの箇所により「戦況を見て撤退の意見」あるいは「長篠城を落として持久戦をする」などの意見が臆病な意見、あるいは甲斐国主すなわち武田家当主にとって悪い事に当たるため、重臣らが勝頼を止めることができず、自殺行為に等しい突撃をした、という可能性があるのではないかと思われる。