令狐愚
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令狐 愚(れいこ ぐ、? - 249年)は、中国の三国時代の魏の武将。字は公治(こうち)[1]。本名は令狐 浚(れいこ しゅん)[1]。叔父は令狐邵。従叔父は王凌。
生涯[編集]
并州太原郡の出身[1]。王凌の外甥にあたる[1]。文帝の時代から魏に仕えていたが、和戎護軍であった際に鳥丸校尉の田予が討伐で功績を立てたのに対して、少し田予が規則に違反した点を厳格に取り締まったので、文帝の怒りを買って投獄されて免職となる[1]。この際に文帝から「愚か者」と言われたので、名を愚と改名した。その後、曹爽が政権を掌握するとその長史となり、兗州刺史に任命される[1]。249年に曹爽が司馬懿の逆クーデターで殺害されると(高平陵の変)、王凌と謀って当時の魏皇帝である曹芳を廃し、曹操の息子で楚王の曹彪を擁立しようとしたが、計画の最中に病死した[1]。