ヨシップ・ブロズ・チトー

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ヨシップ・ブロズ・チトー(よしっぷ・ぶろず・ちとー、ちとー)はユーゴスラビア王国の軍人、パルチザン。また、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の初代大統領も務めた。

出生[編集]

1892年オーストリア・ハンガリー帝国の構成国であるクロアチア=スロヴェニア王国内で生まれた。

第二次世界大戦・第二次世界大戦後[編集]

ドイツ軍によるユーゴスラビア占領の際には抵抗運動の急先鋒としてセルビア系軍人のパルチザンであるチェトニックとともに活躍した。[1]連合国によリドイツ軍による抵抗運動として、援助されていた。[2]1946年には連合国のアメリカ軍やイギリス軍がユーゴスラビアから撤退し、ユーゴスラビアは社会主義者であるチトーをリーダーとしてパルチザンが占領することとなった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立[編集]

1946年の1月に8つの旧ユーゴスラビア王国の構成共和国が合併し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首相として就任した。また、1948年にはスターリンとの決別を決意し、ソビエト連邦主導のコミンフォルムからユーゴスラビアは除名された。[3]そのことからチトーの主義は「チトー主義」と呼ばれ東欧の社会主義諸国では反体制派粛清の口実とされた。

内政[編集]

内政では自主管理社会主義を唱えチトー政権下では社会主義体制ではかなり珍しい野党[4]が存在する上に社会主義諸国では冷戦構造の崩壊後にしか見られなかった年率8パーセント以上の経済成長を冷戦構造中に成し遂げた。成功した独裁者の一例として数えられることが多い。[5]

外交[編集]

インドインドネシアなどの国々と並び非同盟諸国第三世界の盟主となり様々な国と良好な関係を維持した。そのことから日本を含む各国から多数の勲章が送られている。

死去[編集]

1980年に死去した。享年87。チトーの葬儀には東西陣営関係なく様々な人物が来賓[6]した。

その後[編集]

ユーゴスラビアはさまざまな民族が集結し、民族運動が絶えなかったがチトーの活躍とカリスマにより、なんとか抑えられていた。しかしチトーが死去したことに加えインフレの進行により民族運動が再燃。様々な国が独立戦争(スロベニア独立戦争クロアチア独立戦争ボスニア戦争など)を起こし、2006年にはユーゴスラビアは完全に瓦解[7]した。[8]

関連資料[編集]

ヨシップ・ブロズ・チトー(wikipedia)

注釈[編集]

  1. この後、チェトニックはドイツ軍と協力することになり、史上最悪の組織として名をはせた。
  2. しかし、チトーがスターリンに接近していることを知り、共産主義の拡大を危惧していた連合国との関係は徐々に悪化する。
  3. なおその後スターリンから暗殺者がたびたび派遣された。しかし、チトーはその暗殺者を送り返したうえでこちらからも送る準備が出来ているとスターリンを脅迫したことで暗殺者は送られてこなくなった。
  4. 制限された活動が認められている野党。
  5. その他の例としてはインドネシアのスハルト韓国朴正煕などがあげられる。
  6. 昭和天皇の大喪の礼までは当時世界最大の国葬。
  7. 最後の連邦構成国だったコソボが独立した(現在もセルビアは独立を認めておらず、コソボはセルビア領とセルビアの国家文書ではなっている。)ことでセルビア一国となったため崩壊。
  8. 2003年にはユーゴスラビアという名称は使われなくなりモンテネグロが独立する前にはセルビア・モンテネグロとして、緩やかな連邦制を築いていた。