景徳院
(武田勝頼最期の地から転送)
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景徳院(けいとくいん)は、山梨県甲州市大和町田野389にある寺院のことである。また、武田勝頼の墓所でもある。宗派は曹洞宗で、山号は天童山である。
概要[編集]
天正10年3月11日(1582年4月3日)に織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐を受けた武田勝頼は新府城を放棄して郡内の小山田信茂を頼って落ち延びようとしたが、その信茂に裏切られて進退窮まり、天目山に逃亡し、この地で信長の家臣・滝川一益の追討を受けて嫡子の武田信勝、正室の桂林院殿(北条夫人・相模の方)と共に自殺し、戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。勝頼は37歳、信勝は16歳、桂林院殿は19歳であったという。なお、この際に勝頼に最後まで付き従った土屋昌恒ら50人余りも殉死している。
その後、甲斐は織田信長により支配されたが、3か月後の6月に発生した明智光秀による本能寺の変で信長が死去すると天正壬午の乱を経て、徳川家康の支配下に入る。家康は天正16年(1588年)7月に武田家の旧臣・小幡景憲に命じて武田勝頼最期の地である田野に寺院を建立した。創建当初は地名をとって田野寺(たのでら)と称され、初代住職の粘橋によって菩提が弔われた。この寺院は江戸時代後期の弘化2年(1845年)と明治時代中期の明治27年(1894年)の大火によって諸堂宇を焼失しており、わずかに山門のみが創建当初から残るのみである。
山門を入り、右に30メートルほど入った松林の中に勝頼・信勝・桂林院殿の3基の墓石がある。勝頼を中央にして右に桂林院殿、左に信勝が並んでいる。さらにその両側にある方形塔は勝頼に殉じた土屋ら将兵や女房・侍女らの墓もある。墓碑の前には甲将殿が建てられ、勝頼以下の位牌や肖像、遺品などもある。