松前慶広

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松前 慶広(まつまえ よしひろ、天文17年9月3日1548年10月4日)- 元和2年10月12日1616年11月20日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名。松前藩初代藩主。

生涯[編集]

天文17年(1548年)9月3日に蠣崎季広の子として生まれる。兄である蠣崎舜広明石元広は、姉(南条広継の正室)に永禄4年(1561年に舜広、1562年、元広)毒殺された。天正10年(1582年)に父の隠居により家督を相続し、当主となった。

天正18年(1590年)、小田原征伐を終えた豊臣秀吉奥州検地を始めると、まだ16歳だった慶広は主家である安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同。慶広は前田利家らに根回しをし、天正19年(1591年1月)、秀吉に謁見。秀吉は慶広の蝦夷の話を聞き、遠い苦労の感謝の気持ちとして、慶広に従五位下・民部大輔の官位に任じられる。安東氏から独立した。天正18年9月(1590年10月)に津軽海峡を渡り、同年末に上洛。

文禄2年(1593年)、肥前国名護屋城で朝鮮出兵前の秀吉に謁見。秀吉は慶広が参戦したことに喜び、朝鮮討伐の成功の兆しとして従四位下・志摩守に任じた。また、秀吉から朱印状(蝦夷島主と認めるもの)と献上鷹道中伝馬の印章院が与えられ、蝦夷地の領主となった。アイヌ人を集め、彼らに「関白公が数十万の兵を連れて討伐に来ると脅し、全蝦夷地を支配した。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599年)、家康に「系譜」と「蝦夷地図」を差し出した。この時に苗字を「松前」に改めた。慶長9年(1604年)、家康から黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を認められるとと共に従五位下伊豆守に叙位・任官された。

慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣に徳川軍として参戦した。因みに慶長19年(1614年)に豊臣氏に内通していた松前由広(四男)に疑いをかけ、工藤祐種に殺害させた。

元和2年(1616年)10月12日に死去。

人物像[編集]

  • 幼少期から腕力と胆力、そして戦略に優れていたという。
  • 人望が厚かった。