蠣崎季広

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蠣崎 季広(かきざき すえひろ、永正4年(1507年)- 文禄4年4月20日1595年5月29日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名。蝦夷の蠣崎氏5代当主。

生涯[編集]

永正4年(1507年)、蠣崎義広の子として生まれる。天文14年(1545年)、父の死去後、家督存続した。これにより、従兄弟にあたる蠣崎基広が不満を持ち謀反を起こす。季広は長門広益に命じて、鎮圧した。

天文18年(1549年)(天文20年(1551年)とも)にアイヌの首長・東地のチコモタイン、西地のハシタインと和陸(夷狄の商舶往還の法度)し、アイヌとの交易権の独占を図った。季広は、アイヌの首長に財宝を分け与えたことから神位得位(「神のように素晴らしい友」)と称された。また、道南地方の支配権確立、家臣団の再編成など蠣崎氏を強化した。

蠣崎氏は安東氏の支配下に過ぎなかったため、度々兵役の負担を強いられていたりした。13人の娘たちは安東氏や奥州の諸大名と姻戚関係を結んでいる。しかし、将来を渇望し、後継者に指名していた蠣崎舜広(長男)は長女(南条広継の正室)に毒殺さた。

天正11年(1583年蠣崎慶広(三男)に家督を存続させ、隠居生活を送る。この隠居は慶広を育てるという意味もあったようだ。慶広が豊臣秀吉に臣従したことに対して「自分はこれまで檜山屋形(安東氏)に仕えてきたが、おまえは天下の将軍(原文ママ)の臣となった」と言い、息子を伏し拝んだという。豊臣政権下の下地は季広が築いたとされている。

文禄4年(1595年)に死去。