黒木重徳
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黒木 重徳(くろき じゅうとく[1][2]、くろき しげのり[3]、1905年1月11日 - 1946年3月16日)は、日本の社会運動家。日本共産党中央委員。
鹿児島県出水郡中出水村(現・出水市)生まれ。第七高等学校在学中から学生運動に参加し[1]、京都帝国大学進学後は京都帝国大学社会科学研究会で活動[4]。京都帝大法学部卒業後、西日本学生運動指導部会副議長として活動。1928年三・一五事件で検挙されたが起訴猶予で釈放、共産党再建運動に従事。1931年八・二六事件(関西地方組織への弾圧)で検挙されたが釈放、共産党に入党。1932年共産党京都地方委員会を組織。1934年3月大阪で党再建中に検挙。1941年満期出獄したが、同年東京予防拘禁所に収監され、敗戦まで獄中生活を送る[1]。
敗戦後の1945年10月10日、徳田球一、志賀義雄、金天海らとともに府中刑務所から出獄。まもなく徳田、志賀、金、神山茂夫、宮本顕治、袴田里見とともに党拡大強化促進委員会を結成し、1945年12月の第4回党大会でこの7人が中央委員に選出された[5]。1946年2月の第5回党大会でも中央委員に選出、同大会で政治局・書記局の設置が決定され、徳田、野坂参三、志賀、伊藤律とともに書記局員となった[6]。1946年4月10日投開票の第22回衆議院議員総選挙に立候補したが、3月16日立会演説中に過労がもとで意識を失って倒れ、急逝した[4]。
増山太助によれば、日本共産党の読売細胞は黒木の指導で結成された[4]。